2024年3月– date –
-
復活のいのち
説教要約イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3章3節 本日はイースターです。先に天に召された兄弟姉妹を偲びつつ召天者記念礼拝として行わせていただきます。先週私は、月曜からの三日間、千葉県東金市にある文枝姉のマンションで小さな特別集会を持たせていただきました。写真のお二人の他にご主人が青森県出身のご婦人もお一人集い、少人数でしたが、とても充実したプログラムを開催することができました。 5月12日は青森クリスチャンセンターでお二人の洗礼式を執り行います。 洗礼は、キリストの十字架の死と復活を信じ告白し、「罪に死にキリストにあって生きる」という第二の誕生日で... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち175
アントニオいのち“このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(コロサイ2:3) 私たちは今、2024年の受難週を過ごしています。本年の受難週は、私にとって格別なものがあります。妻が天に召されて三年が過ぎ、まだ若いと思っていた私も71歳になりました。残された人生はあまり多くはありませんが、これまでに与えられた多くの恵みを、しっかりと後世に残したいと思っています。先日、受難週の説教を聞いた求道中の女性が、「イエスさまがかわいそうです」とポツリと言いました。「そっか…」と私は思いながら、彼女に言いました。「実は、かわいそうなのは、イエスさまを十字架につけた私たちなのですよ」…と。イザヤ書にこう記しています。「彼は私たちの背きのために刺され、... -
目を覚ましていなさい
説教要約ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。マタイ25章13節 本日の箇所は、再臨の主を花婿になぞらえ、天の御国に入れる五人の娘と入れない五人娘のたとえです。今朝の週報の写真は、先週の婦人会の様子です。学びと主にある交わりの中で、みなさんが、油を満たして待つ賢い五人の娘のように写っています。本日の箇所のたとえは、24章後半の主人が帰るのを待つ忠実なしもべのたとえの続きです。これらの連続したたとえの目的は、主の再臨に際して「目を覚まして」(マタイ24:42,25:13)その時を待つという主題です。そして本日の箇所は、花嫁を迎えに来る花婿一行に、松明の明かりを灯して宴会場に向かう10人のブライドメイドのお話なの... -
第一のものを第一に
説教要約イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが重要な第一の戒めです。マタイ22章37節 [聖書]マタイ22:34-46 週報の写真は、教会すぐそばのサンロード青森の屋上から撮影した八甲田山と青森クリスチャンセンターがある雲谷の山(右)です。詩篇121篇に「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天地を造られた主から来る」とあります。私たちキリスト者の助けは、この神である主から来ることを覚えるとき、主がパリサイ人、律法学者たちに言った申命記のことばは、彼らが標榜として掲げていた本日の主題聖句に真に向き合って生きるとはどういうことかを逆に主が問われてい... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち172
アントニオいのち“私は切に主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。”(詩篇40:1-2) この詩篇は、詩人が、その生涯、多くの苦難の中で、死の淵を彷徨う経験をしつつも、常に主を見上げ、主の助けを求めて歩んだ自らの信仰の確信を歌ったものです。詩人はまたこの詩の中で、「わが神よ」と二人称で呼ばわり、「あなたに並ぶ者はありません」と神を讃えるのです。同じ詩篇で、神の人モーセの祈りに、「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。そのほとんどは、労苦とわざわいです」とあります。小さな私も、もう70を超えました。振り返れば、確かに苦労の連続だったと思います。でも主は、私の叫びと祈... -
ぶれない信仰とは
説教要約わが神よ。私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります。詩篇40篇8節 [聖書]詩篇40:1〜10 今朝のみことばは、現在みなさんと通読している詩篇からです。私たちの信仰は、使徒ヨハネが、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」記しているように、(1ヨハネ5:4)その絶対的な確信のゆえに、主のみこころを行うことを喜びとできるのです。今朝もまた、主の前に自らの信仰を吟味し、誘惑の多いこの時代にあって、「ぶれない信仰」を保ち続けることができるように、自らの信仰の土台を確認させていただきましょう。このあと聖餐式が行われます。ただ儀式にご利益があるという気持ちでは、本当の信仰者とはいえません。...
1