2024年11月– date –
-
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち210
アントニオいのち主を求めよ。お会いできる間に。呼び求めよ。近くにおられるうちに。(イザヤ55:6) 今、私たちの周りは心騒ぐことで溢れています。何が真実なのかを見極めることさえ難しくなっています。ふと気が付けば、自分も偽りの中にどっぷり浸って、その中でもがき苦しんでいるのです。冒頭の聖句は、預言者イザヤがバビロン捕囚(BC586)という南ユダの危機的状況の中で、目を覚まして神に立ち返るようにと叫んだことばです。 新約聖書のヤコブの手紙でも「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(4:8)とあります。預言者のことばはこう続きます。「主に帰れ。そうすれば主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(v.7)... -
真実な信仰を抱いて
説教要約実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている。イザヤ48章2節 [聖書]イザヤ48:1-16 世界は今、キリストの再臨に向かって大きく揺れ動いています。ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ・ハマスとの戦争も鎮まるどころか、ますます過激さを増しています。愛は平和を築き、人々に平安と喜びを享受しますが、戦争は憎しみ破壊、滅亡をもたらす最悪のシナリオであることをどうして人間は受けとめることができないのでしょう。それは自分が正しいという主張を言い張ることから始まっているのです。本日の箇所は、先週の水曜夜、祈祷会で分かち合った箇所です。ここで目に付くのは「彼らは聖なる都の出だと自称し」(v.2)です。これ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち209
未分類だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17) この秋、10月と11月の2回に分けてPBA(太平洋放送協会)のテレビ番組、『ライフ・ライン』で、私の兄と教会の長老、そして私の3人の写真活動と信仰の証が放送されました。挫折を味わい、苦しみもがいた過去のことを話すのは、少しばかり辛い思いもありましたが、とてもよく編集されていて、安心して観ることができました。というのは、今はキリストにあって、新しいいのちが与えられ、毎日が平安と希望で喜びに満ち溢れているのに、かつての私は、自分の力で幸せをつかもうと、あらゆる欲望を自分の神として人を傷つけ、自分自身をも... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち208
アントニオいのち「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1) In the beginning God created the heavens and the earth. 「人とはいったい何者?私は何のために生きている?」と、人はその人生の道のりの中で、しばしば生きる指針を見失うことがあります。つまり正しい目標を見出せなくなるのです。そのようなとき、私たちは、私たちの存在という出発点に立ち返ることが大切だと聖書は教えています。 今から2700年前、イスラエルの預言者イザヤは、取り巻く大国の脅威の中でおじまどうイスラエルの民に向かって、「あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。」(イザヤ43:26)と、彼らに存在の原点に立ち返るように叫びました。つまり、創世記1章1節にある天地万物の創... -
新しい力を得て
説教要約しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。イザヤ40章31節 [聖書]イザヤ40:12〜31 今年もあと二ヶ月を切りました。これから私たちは教会のメインイベントである「クリスマス礼拝&祝会」へ向けて準備を進めてまいります。悲惨な戦争、凶悪な事件、困惑するような出来事が相次ぐ世にあって、私たちは、「ここに救いがあり、ここに平和がある」と声を大にして、救い主誕生のメッセージを伝えたいと思います。そして、そのためにも私たち自身が平安と希望を抱いて自らの生き様をもって主の恵みを証しし、栄光の主を讃えたいと心から願っております。 本日のイザヤ書40章は、救い主イエスの到来... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち207
アントニオいのち「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:45) これは、マリアの親類であるエリサベツが、おとめマリアが救い主をその身に宿したことを知り、彼女に向かって語ったことばです。新改訳第3版では、「実現すると信じきった人は」と訳されています。 この前提には、「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)と、御使いがマリアに語ったことばにあります。私たちキリスト者は、礼拝の中で『使徒信条』を通して、「おとめ(処女)マリア」から救い主がお生まれになったことを告白しています。もうすぐクリスマスがやって来ます。世界中でクリスマスがお祝いされますが、このクリスマスの主イエスを、「私の救い主、わが神、わが主」として...
1