アントニオいのち– category –
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◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち232
“ たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。”(1コリント13:2b) 使徒パウロは、キリストの十字架の愛こそが、私たちに一番大切であることを強調して教えています。どんなに感動的な素晴らしいことをして見せても「愛がなければ、何の役にも立ちません」とまで言い切っているのです。さらには、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」とまで言い張るのです。少年時代、生意気で愚かだった私は、失恋によって本当の愛について考えるようになり、教会に通い、聖書を通してキリストの愛を知るようになりました。キリストの十字架の愛を知ったとき、暗かった心に光がさして、嘆きが喜... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち231
“主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる”(詩篇31:23) イスラエルの統一王であるダビデが、様々な苦難の中にあって目を向けたものは、敵の脅威ではなく、すべてをご存知の力に満ちた助け主である神であった。悪者は罠を張ってダビデをおとしめようとするが、ダビデは主に信頼し、神の民イスラエルの王としての誠実を持って最善を尽くそうと常に神を見上げ、神の助けと導きを祈りつつ待ち望みました。彼は詩篇16篇でもこう歌っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことはない」と。反対に高ぶる者どもは、高慢を持って神を侮り、結局は自ら墓穴を掘って滅びに至ることを聖... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち230
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。(イザヤ45:5) 本年の受難週5日目を迎えました。私たち人類の罪をその身に背負い、ひとり黙々と十字架の道を歩まれた神の御子イエス・キリストの苦難を覚えます。次週の主日はイースターを迎え、私たちは復活の主を讃えます。主を「私はあの人を知らない」と三度否んだ弟子のペテロは、後に聖霊に満たされ、捕えられたユダヤ議会の中央に立って、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と、天地万物を創造された神の絶対的主権が、このキリストにあることを大胆に語りました。 冒頭の聖句でも、預言者イザヤが、「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち229
“機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。”(エペソ5:16) 今回は、パウロの獄中書簡と言われる手紙からです。世に迎合し、神を悲しませる混乱した悪い時代にあって、神の子とされたキリスト者が如何に生きるべきかをパウロは教えています。まずは「神に倣う者となりなさい」と、次に、「愛のうちに歩みなさい」です。そして、「光の子どもとして歩みなさい」と続きます。スポーツの世界で、「ピンチはチャンス」ということばがよく用いられます。冒頭の聖句は、まさに「悪い時代だからこそ機会を十分に活かす」とも読み取れます。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光です」(マタイ5:13-14)と仰せられました。まさに、世の腐敗を防ぐ塩となり、闇を照らす光となるのが... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち227
人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。(箴言19:21) 私たち人間には、夢があり希望がありますが、歳を重ねるごとに、現実の厳しさに夢破れ、失望し、途方に暮れることがあります。さらには、心配や思い煩いに心が支配されることもあるのです。 そんな私たちに、聖書は「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)と教えています。冒頭の聖句は、人は神に信頼し、神の目的に従うときに、調和が保たれ、計画が実現するという意味です。 今もなお愚かな私は、72歳になり、今でも夢を抱いて歩ませていただいています。4年前に、43年間連れ添った妻に先立たれ、寂しさの中に... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち225
「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(II コリント4:16) ドイツの精神科医ポール・トウルニエの著書、『人生の四季』の中で、ポール氏は「人間の生では、秋にさえ春が来ることがある」と書き述べています。実際に、彼が関わった80歳を超える老教授がキリスト信仰に導かれ、「私は自分が、今生まれたばかりのみどり児のような気がする。私の人生はいま始まったのだ」と神との出会いによる心の変化を口にしたというのです。私は三日前に72歳の誕生日を迎えました。人生の四季に例えるなら、すでに秋のただ中に生きているのですが、私の心は、新芽が息吹く春の季節を迎えている気分なのです。これと同じことを四年前、妻が天に召される一ヶ月前に、... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち223
悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから。詩篇37篇1-2節 私たちは、「目には目を、歯には歯を」という旧約の律法を用いて、敵対する相手ととことんやり合ってしまうことがあります。聖書は、それは大きな間違いであることを教えています。ダビデがサウル王に仕えていたとき、王の妬みからいのちを狙われ、また王になってからも息子に謀反を起こされ、いのちを狙われます。そんなダビデが、常に心を注いで祈り求めたのは、ダビデが常に信頼して祈る神の助けでした。そして彼が確信したのが、「主に信頼し、善を行え。地に住み誠実を養え。」(v.3)ということです。今回のみことばは、その前の1節... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち222
「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2) これは、主イエスの兄弟ヤコブが、エルサレムにおける迫害によって各地へ散らされた兄弟姉妹たち(ディアスポラ)に宛てて書いたものです。信仰の結ぶ実は、「愛、喜び、平安・・・」であるはずが、現実には、なんと「様々な試練」となり、その身に危害を及ぼす事になっているのです。そこで、エルサレムにおける教会の長老であったヤコブが、苦難の中にある彼らを励ますために、「試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」というのです。ありがたくない試練を、「この上もない喜びとする」とは、いったいどうすればとよいのでしょう。 ヤコブは、こう続けます。「信仰が... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち221
” 私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。"(詩篇62:1-2) このダビデの賛歌は、王としてのダビデが息子アブシャロムに謀反を起こされ、いのちを狙われるという重圧の中で、神に望みを置く者としての幸いを告白しています。「神から救いが来る」というダビデの信仰の確信は、「神こそわが岩」という、神の力と絶対的主権、その不変性を表しています。「揺るがされない」とは、ダビデの強い確信です。 私たちも、思わぬ出来事の中で戸惑い悩むことがありますが、このダビデの信仰の確信を覚え、私たちの救い主イエス・キリストは、どんな苦難からも私たちを救い出してくださる恵みに溢れるお方... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち220
“木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。”(ヨブ記14:7) このことばは、旧約聖書のヨブ記に登場するヨブという人が、度重なる災いで家族と財産を失い、自らも悪性の腫物に覆われ、生きる屍と化した状態の中で口にしたものです。彼は万物の創造者である神を信じる誠実な人で、その信仰が大いに祝福され、幸いな生活を送っていました。しかし、突如として数々の苦難に襲われ、その心が揺さぶられるのです。ヨブにとっては不条理と思われる苦しみの中で、彼は自然界の木々に目をとめ、「木には望みがある」と、それでも神に望みをおくのです。世界は今、相次ぐ飛行機事故や突然の災いで、多くの尊いいのちが失われています。「神がいるな...