私の神、私の主

その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の良いと見えることを行なっていた。士師記21:25    


  先週水曜日の夜から祈祷会が再開され、現在通読している士師記を学ばせていただきました。士師記を読んでいて、「この一節が心に」と言いう聖句を見出すのは大変なことだと思います。
 妥協と放縦、無法と無秩序の民の生き方は、部族間での殺戮まで発展し、神のみこころどころか自分たちの目に良いと思うことを行なっていたのです。この士師記から私たちはいったい何を学ぶことができるのでしょう。みなさんはどのように思われるでしょうか。士師記の時代は前1400年から1100年の約300年と考えられています。ヨシュアの死後、強力なリーダーが存在せず、彼らの神以外は統一力を持たなかった十二部族でした。したがって、彼らのあり方は、神を我らの主として、それぞれの割り当ての地を完全制覇し、部族全体が一つとなって神聖国家(神政政治)を築くことだったのです。しかし、その現実は、彼らは、「それぞれが自分の目に正しいと思われることを行なった」(21:25)と言うのです。それが何で悪いのと言うのがこの世の生き方です。しかし、私たちには「神の国と神の義」に生きる信仰が、御救いと喜びの絶対的規範なのです。

1.私が神、私が主という考え
 一人ひとりの存在は尊く貴重で、それぞれの主体性が尊重されます。それゆえに、人は他者の心の領域を侵害することは許されることではありません。
 しかし、神の愛によって結ばれるなら、一つの大きな共同体が築かれるのです。でも、「私が主」という強者がリーダとなれば、そこには独裁政治が生まれるのです。私たちは小さな独裁者になってはいないでしょうか。


2.約束が与えられているのだから
 モーセとヨシュアに導かれた民は、神の約束の地に辿り着き、いよいよこれから神の王国がという時に、道を踏み外してしまいました。それは、領土の中にある敵を追い払うことをしなかったという妥協に原因があったのです。そして偶像礼拝へと転落し、敵の攻撃にさらされ、かろうじて12人の士師たちによって、希望を繋ぐことができました。

3.私の神、私の主として
 士師記全体の結論として言えることは、「士師記の民の生き様を反面教師とせよ」です。民が士師によって敵から救われた時には平安な時代が与えられました。私たちの偉大な主は、主なるキリストであり、聖霊なる神です。このお方に信頼して歩むなら、常に勝利者として祝福が与えられるのです。
 

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あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

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