彼にこう言え。
『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を立てる。彼が主の神殿を建て、彼が威光を帯び、王座に就いて支配する。』
ゼカリヤ六章二十二節〜
メシアの戴冠 [聖書]ゼカリヤ6:9-15
先週、私がウクライナ情勢を憂いつつ黙想しているとき、詩篇12篇8節のダビデの賛歌が心に留まりました。
「人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪しき者がいたるところで横行します」との聖句です。
77年前の1945年、ナチスドイツの独裁者ヒトラーが自ら命を絶ち終戦を迎えます。
それは日本がアメリカに敗戦し、無条件降伏した年でもあります。
今世界は、ロシアの独裁者の手による悲惨な戦争が現実となっています。
「歴史は繰り返す」と言われますが、愚かな人間の歴史は、まさに同じことを繰り返しているのです。
そこで、大切なことは、「私は何者か」という存在のアイデンテティを確認し続けることです。
今朝の通読箇所、ゼカリヤ6章は、突然、四台の戦車が二つの山から出て来ることで始まります。
現在の世界情勢と重なり、ドキッとする描写です。
それは、歴史を支配しておられる方、神である主がイスラエルを圧迫する国々を征服し、メシアであるキリストを通して神殿を再建し、世界を統べ治めるという預言です。
それは、教会の頭として私たちの内に臨在される王なるキリスト・イエスを指し示しているのです。
1.歴史の中に臨在される神
昔、宣教師から「歴史は神の物語」と聞いたことがあります。
つまり「His story/History」だというのです。
この視点に立って聖書を読み始めるなら、歴史における神のみこころのなんたるかを知ることができるでしょう。
そして、本日の文脈は、BC520年頃からキリストの時代、そして現代へとフォーカスを当てて神の栄光を示しているのです。
2.静まって神の栄光を見よ
「Still」(静まれ)という大好きなゴスペルがあります。
「汝ら静まりて我の神たるを知れ」(詩46:10文語体)という聖句を歌ったものです。
激しい戦いや試練のただ中にあって、静まって自らの存在が「神に愛されている者」であることを覚えるのです。
ダビデをはじめ、雲のように取り巻く聖徒たちのその生涯は神の栄光の中に存在したのです。
3.王であり大祭司であるキリスト
13節から後半は、若枝なるキリストが王座に就いて戴冠することと、異邦人を指して「遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建てる」とあります。
その成就として、現代の教会が世界に存在しているのです。
すでに私たちは永遠の王として御座に就いて戴冠されたキリストの中に生きています。
私たちは神の子として存在しているのです。