神にあって私たちは力ある働きをします。
神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。
詩篇一0八篇十三節
ともにおられる神 [聖書]詩篇108篇13節
「主にあって」あるいは、「キリストにあって」ということばは、私たちの信仰そのものです。
使徒パウロが「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1:21)とその信仰を告白するように、主がともにおられるなら、すべてが神の栄光に包まれるのです。
現在、私たちは申命記を通読しています。
先週の祈祷会では、まさにダビデの詩篇108篇を思わせるような場面を申命記20章1節から4節までに読み取ることができました。
ここには、圧倒的な力を持つ敵の前にあっても、主がともにおられるゆえに敵を恐れず、弱気になることなく戦いに挑めと命じられています。
そして、主が敵との戦いに勝利を得させてくださるというのです。
私たちの日々の生活の中にも歩みを妨げる敵がいます。
その一番の敵は私たちの心の中にある不信仰なのです。
その不信仰とは、自己中心であり、神よりも自らを第一とする罪なのです。
ガラテヤ2章19-20節でパウロが教える「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」といういさぎよい信仰こそ、私たちの敵を打ち破る勝利の秘訣なのです。
1.約束はすでに現実に
妻めぐみが臨終を間近にして、「パパ、私には平安があるよ」と言ったことは、まさに勝利の主がともにおられることを証しています。
夫の私にも毎日平安があり、希望があります。
それは、主がすでに勝利を与えてくださったという確信です。
まさに「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)と語られた主のことばの通りなのです。
2.勝利を実感するために
信仰によって、私たちに与えられた愛、喜び平安を、聖書は「キリストによる十字架の恵み」と教えています。
この恵みを実感できなければ平安を得ることはできません。
では実感を得るために必要なことは何でしょう。それは、みことばを心に刻むことと、分かち合い共に祈ることです。祈りがなければ確信はすぐに崩れてしまうのです。
3.神が私たちの敵を打ち破る
もう一度申命記に戻りましょう。
先週の20章です。
この箇所は戦争についての規定です。
出陣に際して敵との戦いに勝利を得させてくださるのは神であることを確信するように求められています。
「馬や戦車」とは、出エジプトの際、丸腰の民にエジプト軍が迫ってきたとき、主が彼らを踏みつぶし、連れ上ったことを想起させているのです。