説教要約– category –
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見よ、その日が来る マラキ書4章2節
しかしあなたがた、わたしを恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように飛び跳ねる。マラキ4章2節 アドベントの第三週を迎えました。いよいよ来週は救い主の御降誕をお祝いするクリスマスを迎えます。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(1ヨハネ5:4)とあるように、クリスマスのイエスが、十字架の贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、私たちに勝利の人生を与えてくださったことを覚える時、それそこ、私たちの人生は、毎日がクリスマスの喜びでいっぱいなのです。本日は旧約聖書最後のマラキ書4章から、「見よ、その日が来る」と言われる神のさばきの預言からクリスマスのイエスについて学... -
闇に輝く救いの光
闇の中に歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。 イザヤ9章2節 アドベントの第二週を迎えました。本年もあと三週間ほどで終わりです。世界はますます混乱状態に陥り、地球自体も「温暖化から地球沸騰化の時代に入った」と国連のグテーレス事務総長が記者会見の中で発言しました。 神が創造された世界が人間の手によって壊され、それでいて、さらに宇宙へとその生活圏を広げようと企んでいるのですから、神の前における人間の高慢はとどまるところを知りません。本年はイスラエルとガザ・ハマスによる軍事衝突による悲惨な戦争で、尊い命が次々と奪われ、その悲しみは癒えることがない状態が続いています。クリスマスを前に、多くの人たちは... -
恵みと祝福は主から
主は ご自分の民に力をお与えになる。主は ご自分の民を 平安をもって祝福される。 詩篇29篇11節 先週水曜夜の祈祷会で、堤長老から「恵みと祝福の違いはなんでしょう」という質問が、ある方の代弁としてなされ、ダビデの詩篇26篇を学びながら、出席者とともに考えてみました。そして、私がこれまで学んで来たことをお話しし、それをあらためて先週の「アントニオいのち」でも配信したのです。恵みと祝福を分けて考えることはとても大切なことだと思っています。ギリシャ語の辞書では「恵み」(カリス)は、「恵み深い行為、恩恵、恩寵であり、新約聖書では、神がキリストによって人類にもたらされた無償のギフトである」とあります。つまり、恵みはキリストの十字架によって与えら... -
主を求めて生きよ アモス5:1-15
善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、ともにいてくださる。アモス5章14節 先週私は、旭川めぐみ教会の聖書講演会で『聖書が語る神の愛』というテーマで講演をさせていただき、聖霊に押し出されてメッセージを取り継がせていただきました。新しい方々が10名、その他に教会メンバーのご家族が集われ、祝福された講演会となりました。このような働きと祝福は背後の祈りがあればこそで、感謝でいっぱいです。先週から私たちはアモス書の通読に入っています。アッシリヤ捕囚のおよそ30年前、BC750年頃に南ユダの羊飼いであり、農夫でもあった預言者アモスによって語られた北イスラエルのさばきに関する預言の... -
共におられるイエス
まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。 詩篇23篇6節 先週末の私は、スケジュールが詰まっていて、とても慌ただしい時間を過ごしていました。それでも、朝毎のみことばと祈りの時間が守られ、夜の感謝の時を欠かさず過ごせたのは、「いつも主が共におられる」という信仰の恵みだと感謝しています。本日の「みことばの光」の通読箇所は詩篇23篇です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(v.1)多くの苦難を経験したダビデが、主の助けと守りを回顧しながら、主なる神を羊飼いとし、自らをか弱き羊になぞらえて、歌うこの詩は、まさに、九十九匹を残し、いなくなった一匹の羊を探し... -
信仰の土台 マタイ6:24-34
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。マタイ6章33節 本日の週報表紙の写真は、先週行われた「東北地区秋季聖会」の様子です。コロナパンデミックが収まり、昼食の交わりも自由になり、講師の岩松先生から『終末から始まる世界』と題して大きな励ましをいただきました。岩松先生は、自身が末期癌と宣告され、まさに人生の終わりを体験し、さらには突然のように奥様が天に召されました。 相次ぐ試練の中で先生が見たものは、キリストの十字架を通して与えられる終わりに見る新たな出発なのです。 聖会の最後に、私が感謝の挨拶をさせていただき、「宣教とは、真実な神のみことばと、そのみことばに生きる信仰者の... -
新たな始まり [聖書]第2コリント5:15-17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5章17節 使徒パウロがコリントの教会に宛てたこの手紙には、パウロの涙ながらの渾身の思いが込められています。それは宣教の情熱だと言っても良いでしょう。キリストにあって、罪赦され救われた者が、キリストにあって真実に生きるとはどんなことかを教えているのです。 先週水曜夜の祈祷会で学んだ5章前半はイスラエル特有のキーワードで記されているため、注意深く読み取る必要がありました。たとえば、「地上の住まいである幕屋」とか、「人の手によらない永遠の住まい」、「天からの住まい」とか、「神はその保証として御霊を... -
『私の民、私の神』 [聖書]ルツ記3:1-11
ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように、あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。ルツ記3章10節 先週の礼拝説教は、士師記のまとめとして、『私の神、私の主』というテーマでお話ししましたが、実のところその逆で、「私が神、私が主」という、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた」という背信と放縦を示すことばで士師記は閉じられるのです。 士師記は、悶々とした暗い12部族のリーダー無き、背信の三百年であったと言えるでしょう。そして、聖書通読箇所は、士師記からルツ記へと移りました。先週水曜日の祈祷会ではルツ記3章から学ばせて... -
私の神、私の主
その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の良いと見えることを行なっていた。士師記21:25 先週水曜日の夜から祈祷会が再開され、現在通読している士師記を学ばせていただきました。士師記を読んでいて、「この一節が心に」と言いう聖句を見出すのは大変なことだと思います。 妥協と放縦、無法と無秩序の民の生き方は、部族間での殺戮まで発展し、神のみこころどころか自分たちの目に良いと思うことを行なっていたのです。この士師記から私たちはいったい何を学ぶことができるのでしょう。みなさんはどのように思われるでしょうか。士師記の時代は前1400年から1100年の約300年と考えられています。ヨシュアの死後、強力なリーダーが存在せず、彼らの神... -
私たちの喜びの源泉
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。ピリピ4:4 [聖書]ピリピ4章1節〜7節 先週は東金ハウスチャーチの礼拝で、皆さんと共に救い主イエス・キリストの父なる神を賛美し、礼拝できました。お祈りを感謝いたします。クリスチャンは、初対面であっても、救いの神にあって、天に国籍を持つものとして、一つの家族、兄弟姉妹であることを覚えさせていただいています。本日は、先週千葉のハウスチャーチで分かち合ったピリピ4章4節を中心に、「私たちの喜びの源泉」というテーマで、メッセージを取り継がせていただきます。もうすでに皆さんが暗唱している聖句です。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜び...