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新たな始まり [聖書]第2コリント5:15-17
説教要約だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5章17節 使徒パウロがコリントの教会に宛てたこの手紙には、パウロの涙ながらの渾身の思いが込められています。それは宣教の情熱だと言っても良いでしょう。キリストにあって、罪赦され救われた者が、キリストにあって真実に生きるとはどんなことかを教えているのです。 先週水曜夜の祈祷会で学んだ5章前半はイスラエル特有のキーワードで記されているため、注意深く読み取る必要がありました。たとえば、「地上の住まいである幕屋」とか、「人の手によらない永遠の住まい」、「天からの住まい」とか、「神はその保証として御霊を... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち147
アントニオいのち「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16) 私マッキーは、70を超え、老人と呼ばれる年齢になりましたが、気持ちは未だ現役の青年です。しかし、冒頭に掲げた聖句のように、確かに体力は衰え、目も弱くなり、見た目はまさに年相応になってしまいました。少年時代は病弱で、元気になったと思ったら道を外し、親兄弟の悲しみの子でしたが、キリストの十字架の福音により、新しいいのちと御国の恵みに生きるようになってからは、毎日がクリスマスとイースターの喜びに溢れています。 それゆえに「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝せよ」というパウロのことばを実感するようになりました。「私たちは落胆しま... -
『私の民、私の神』 [聖書]ルツ記3:1-11
説教要約ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように、あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。ルツ記3章10節 先週の礼拝説教は、士師記のまとめとして、『私の神、私の主』というテーマでお話ししましたが、実のところその逆で、「私が神、私が主」という、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた」という背信と放縦を示すことばで士師記は閉じられるのです。 士師記は、悶々とした暗い12部族のリーダー無き、背信の三百年であったと言えるでしょう。そして、聖書通読箇所は、士師記からルツ記へと移りました。先週水曜日の祈祷会ではルツ記3章から学ばせて... -
• Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち 146
アントニオいのち「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記 1:16b) このことばは、夫を失い未亡人となったルツが、モアブの地で姑のナオミに語ったものです。姉のナオミもまた夫を失い、さらに二人の息子をも失い、残されたのは二人の息子がモアブで髪った嫁たちでした。そんな悲しみの中で、ナオミが自分の土地、ユダのベツレへムに帰ろうとした時、兄嫁のルツが姑にすがって言ったこのことばは、まさに神への信仰告白なのです。 エレミヤ30:22に、「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたがたの神となる。」と主のことばが記されています。これは、ルツの信仰に報いるような神の祝福のことばです。さらにエレミヤ書ではこう続きます。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若... -
私の神、私の主
説教要約その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の良いと見えることを行なっていた。士師記21:25 先週水曜日の夜から祈祷会が再開され、現在通読している士師記を学ばせていただきました。士師記を読んでいて、「この一節が心に」と言いう聖句を見出すのは大変なことだと思います。 妥協と放縦、無法と無秩序の民の生き方は、部族間での殺戮まで発展し、神のみこころどころか自分たちの目に良いと思うことを行なっていたのです。この士師記から私たちはいったい何を学ぶことができるのでしょう。みなさんはどのように思われるでしょうか。士師記の時代は前1400年から1100年の約300年と考えられています。ヨシュアの死後、強力なリーダーが存在せず、彼らの神... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち145
アントニオいのち「主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊な恵みよって、人をあわれまれる。」(哀歌3:32) 昭和の高度成長期に、「何から何まで、真っ暗やみよ〜」と言う歌謡曲が大流行しました。何でも頑張れば可能になるという時代でしたので、このフレーズも、大衆は深刻には捉えてはいませんでした。しかし令和の今日、不安だらけで「どうなる日本?」と深刻に考える人も少なくありません。そこで私は教会の牧師としてひとこと言いたい。それは、「何に望みを置けばよいのか」という、人が生きるそのあり方だ。冒頭の聖句の主語は、天地万物を創造された神である「主」です。この哀歌の文脈に、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ご... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち144
アントニオいのち「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:18-19a) 私の2023夏季休暇も祝福のうちに終え、いよいよ後半に向かって新たな一歩を踏み出そうとしている昨日、士師記13章の通読箇所から、「わたしの名は不思議という」(士師13:18)とのことばが心に留まりました。これは、主の使いが後にサムソンの父親となるマノアに語ったものです。英訳では<It is beyond understanding.>で、Itの文脈から、「その名は理解を超えている」と訳せます。こうして、ペリシテからイスラエルを助け出す怪力サムソンが誕生するのです。冒頭のイザヤの聖句に戻りますが、主が愛する民に、「うじうじするな!見よ、わたしは新... -
私たちの喜びの源泉
説教要約いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。ピリピ4:4 [聖書]ピリピ4章1節〜7節 先週は東金ハウスチャーチの礼拝で、皆さんと共に救い主イエス・キリストの父なる神を賛美し、礼拝できました。お祈りを感謝いたします。クリスチャンは、初対面であっても、救いの神にあって、天に国籍を持つものとして、一つの家族、兄弟姉妹であることを覚えさせていただいています。本日は、先週千葉のハウスチャーチで分かち合ったピリピ4章4節を中心に、「私たちの喜びの源泉」というテーマで、メッセージを取り継がせていただきます。もうすでに皆さんが暗唱している聖句です。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜び... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち132
アントニオいのち「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」(箴言27:17) 日本のことわざに、「類は友を呼ぶ」とか、「朱に交われば赤くなる」と言うのがあります。不良仲間と遊ぶようになった少年時代、私もまた立派な不良少年になっていたという過去があります。しかし、そんな私がキリストに愛されていることを知り、回心してから、「神の聖徒」と呼ばれる信仰の友が与えられ、なんと、プロボクサーから牧師になってしまいました。<As iron sharpens iron, so one person sharpens another.>「鉄は鉄によって、人はその友によって研がれる」 <sharpens>「研がれる」(シャーペンズ)なんという鋭い響きだろう。 最近、私は病と闘っている友が与えられました。主に背中を押... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち121
アントニオいのち御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ5:22 これは、キリスト者が信仰により、神の御霊によって与えられる豊かな結実です。愚かな私も、長い信仰生活の中で、キリストの愛と恵みによって、少しずつ成長し、これらの実を見させていただくようになりました。不思議と、心の中には、喜びと祈りと感謝が溢れているのです。イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)と弟子たちに仰せられ、「わたしの愛にとどまりなさい」<Now remain in my love.>(v.9)と戒められました。かつて、教会の迫害者であった使徒パウロは、「だれ...