アントニオいのち– category –
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◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち154
アントニオいのち「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:2-3) 昨夜の祈祷会で「恵みと祝福はどう違うの」という質問が出された。本当に純真な質問で、私も「う〜ん…」とうなずきながら、出席者とともに考え、私からは、恵みは旧約聖書の原語では「ヘセド」と言い、「愛、誠実、慈しみ、あわれみ、恵み」など神のご性質を表します。神は、御子イエスの十字架の贖いの御業で、この豊な恵みを私たちに与えてくださいました。これを新約の原語では「カリス」と言い、神がキリストによって人に与えたこの祝福が無償であることを「恵み」であると言い、「祝福」... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち153
アントニオいのち喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15) 「 このことばに続いて、パウロは「互いに一つ心となり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」(新改訳2017)と続け、注意を促しています。ここにキリスト者が一つ心となる愛の交わりがあるのです。この「交わりなさい」は、新改訳第3版では「順応しなさい」と訳されており、原文は「スナパゴーマイ」で、「自身を順応させる、(身を低くして)〜と交わりを持つ」という意味があります。それはまさに、私たちの罪を一身に背負い十字架の道を歩まれたキリストの姿です。キリストの十字架によって罪贖われ、神の子とせられた私たち... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち152
アントニオいのち「高ぶりがあると、ただ争いを生じるだけ。」(箴言13:10) <Where there is strife, there is pride.> 私が愛読している『謙遜』というアンドリュー・マレーの著書の中に、「人の高ぶりこそキリストの贖いを必要とする最も大きな罪である」とあります。聖書は、高ぶりは争いを引き起こし、自らを破滅させるとも教えています(cf.詩篇16:18,18:12)。終末の様相を呈しているこの時代、キリスト教会の中にもヒタヒタとこの高ぶりが義人の姿を装って入り込んでいます。パウロは、1コリント13章で、「…あらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しい」と愛を強調し教えています。人の高ぶりには、その愛が欠落してい... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち151
アントニオいのち「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」エペソ2:14-16 実に、キリストこそ私たちの平和です。」(エペソ2:14) このたび私は、旭川の教会に講師としてお招きされ、『聖書が語る神の愛』というテーマでお話をさせていただいた。背後の積み上げられた豊かな祈りにより、聖霊に押し出されるように、神の愛について語らせていただいた。同労の牧師ご... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち149
アントニオいのち「一切のことを、愛をもって行いなさい。(1コリント16:14) 「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14) 私の一日は、朝の祈りとみことばから始まり、就寝前の感謝の祈りで終わります。取るに足りない小さな者が、キリストの十字架の愛と恵みによって、全知全能の偉大な神を知るようになり、素直に「天の父なる神さま」と呼ばわり、祈れる人間に変えられた。まさに奇蹟である。その神が使徒パウロを通して、「一切のことを愛をもって…」と語り、さらに「愛は結びの帯として完全です」とも言うのです。この「一切のこと」と「完全」は、まさにeverythingでありperfectなのです。今もなお罪深い愚かな者が、どうしてこれを実行出来ようかと思われるかもしれないが、なんと朝一番に、... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち148
アントニオいのち「まず神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33) 主イエスの「山上の教え」のこのみことばは、恵み溢れる神の国と、この地上の様々な問題の中で生きる信仰者にとって、心配や思い煩いを引き起こす心、その生活が、私たちを神から引き離す一番の大敵であることを教えています。「神の義」の「義」のギリシャ語は「デカイオスネー」で、聖書外では、法廷において義を宣告される際に用いられる裁判的な意味と、聖書の「救い」と「勝利」という意味を兼ね備えています。「神の国と神の義」とは、キリストの救いが私たちの出発点であり、神の御手の中にある人生こそ、心配や思い煩いを払拭し、真の平安と希望を与えてくださる原点なのです。それゆえに、最も大切なことは、偉大な天の父... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち147
アントニオいのち「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(2コリント4:16) 私マッキーは、70を超え、老人と呼ばれる年齢になりましたが、気持ちは未だ現役の青年です。しかし、冒頭に掲げた聖句のように、確かに体力は衰え、目も弱くなり、見た目はまさに年相応になってしまいました。少年時代は病弱で、元気になったと思ったら道を外し、親兄弟の悲しみの子でしたが、キリストの十字架の福音により、新しいいのちと御国の恵みに生きるようになってからは、毎日がクリスマスとイースターの喜びに溢れています。 それゆえに「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝せよ」というパウロのことばを実感するようになりました。「私たちは落胆しま... -
• Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち 146
アントニオいのち「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記 1:16b) このことばは、夫を失い未亡人となったルツが、モアブの地で姑のナオミに語ったものです。姉のナオミもまた夫を失い、さらに二人の息子をも失い、残されたのは二人の息子がモアブで髪った嫁たちでした。そんな悲しみの中で、ナオミが自分の土地、ユダのベツレへムに帰ろうとした時、兄嫁のルツが姑にすがって言ったこのことばは、まさに神への信仰告白なのです。 エレミヤ30:22に、「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたがたの神となる。」と主のことばが記されています。これは、ルツの信仰に報いるような神の祝福のことばです。さらにエレミヤ書ではこう続きます。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち145
アントニオいのち「主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊な恵みよって、人をあわれまれる。」(哀歌3:32) 昭和の高度成長期に、「何から何まで、真っ暗やみよ〜」と言う歌謡曲が大流行しました。何でも頑張れば可能になるという時代でしたので、このフレーズも、大衆は深刻には捉えてはいませんでした。しかし令和の今日、不安だらけで「どうなる日本?」と深刻に考える人も少なくありません。そこで私は教会の牧師としてひとこと言いたい。それは、「何に望みを置けばよいのか」という、人が生きるそのあり方だ。冒頭の聖句の主語は、天地万物を創造された神である「主」です。この哀歌の文脈に、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ご... -
◯ Pastor Macky 71の『いのちのパン』アントニオいのち144
アントニオいのち「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:18-19a) 私の2023夏季休暇も祝福のうちに終え、いよいよ後半に向かって新たな一歩を踏み出そうとしている昨日、士師記13章の通読箇所から、「わたしの名は不思議という」(士師13:18)とのことばが心に留まりました。これは、主の使いが後にサムソンの父親となるマノアに語ったものです。英訳では<It is beyond understanding.>で、Itの文脈から、「その名は理解を超えている」と訳せます。こうして、ペリシテからイスラエルを助け出す怪力サムソンが誕生するのです。冒頭のイザヤの聖句に戻りますが、主が愛する民に、「うじうじするな!見よ、わたしは新...