アントニオいのち– category –
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◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち181
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2) 『ミッドライフ・クライシス』(中高年の危機)ということばがワイドショーで取り上げられていた。第二の思春期とも言われ、人生の折り返し地点における喪失感や倦怠感でうつ病を発症することも多く、中高年の八割がこれを経験していると言うのだ。中高年といえば、登山に例えればちょうど山の中腹を超えた時点です。上を見上げれば、まだ先が長く、不安と恐れが頭をよぎるのだ。しかし、冒頭に掲げた詩篇には、「都上りの歌」との表題があり、天地万物を造られた神を礼拝するために喜びいさんで都に上る信仰者の姿を歌っています。続く3節にこうありま... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち180
「あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」(詩篇73:24) この聖句は昔、私が生涯献身を求めて断食祈祷していた京都のビジネスホテルの一室で与えられたものです。なかなか確信が与えられず悶々としていた朝方、たまたま開いていたページがこの詩篇73篇でした。この聖句に触れたとき、私は直感で、主が諭し導いてくださるのなら、私はありのままで従おうと決心したのです。そして、「後には栄光のうちに受け入れてくださる」ということばには、主の十字架による勝利と栄冠が輝いて見えたのです。 あれから、早くも40年になろうとしています。振り返ると間違いなく主の諭しと導きは真実であり、残された人生にも神の栄光の希望が溢れているのです... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち179
「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」(詩篇4:1) 新改訳2017では、「追いつめられたとき、あなたは私を解き放ってくださいました。」と訳され、完了形で記されています。この「ダビデの賛歌」の4章1節の前後には、神に対する叫びと祈りがあります。つまり、敵に追い詰められ、危機的状況の中で、神に向かって祈り求め、解放されて平安を得たというのです。私たちの危機的状況にも、物理的、精神的なものが多々あります。経済的な心配、人間関係による思い煩いなど、やり場のない状況に追い詰められることがあります。このようなときに、キリスト者は、救い主イエス・キリストの御名により、義なる神に向かって具体的助けを祈り求めることができる... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち178
二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」(伝道者4:9) 「このことばは、「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば」(1:2)とあることから、ソロモン王とされています。彼は当時の全世界に、知恵と富と文才で知られていた最も有名な王でした。彼のこのように優れた知恵と知識は、彼がそのことを第一に神に願い求めたからです。(cf.1列3:10)。その知恵は、シェバの女王がソロモンの名声を聞き、難問を持って試そうと大勢の従者と多くの贈り物を携えて接見するほどでした(1列王10:1)。「彼に答えられなかったことは何一つなかった」とも記されています(同10:3)。そのソロモンでさえ、「二人は一人よりもまさっている」と言うのです。この伝... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち177
「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」(ミカ7:19) 昨夜の祈祷会で教会福音讃美歌の371番『とこしえの父の神に』を、みなで賛美した。繰り返しの箇所に「主の御手はどんな罪も、海の深みに投げ入れて沈められる。主よ、感謝します。」と歌われている。まさにミカ書7章19節の聖句です。ダビデの統一王国が、彼らの偶像礼拝と背信の罪ゆえに、北と南に分断され、サマリヤとエルサレムがそれぞれの首都となるのですが、北のサマリヤはBC721年にアッシリヤ帝国によって廃墟となり、BC586年には南のエルサレムもバビロンによって陥落するのです。このミカ書の特徴は、「罪、滅亡、回復」の三つの使信が記され... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち176
「わたしの愛にとどまりなさい。」 ”Now remain in my love.” (Jhon15:9b) このことばは、主イエスが最後の晩餐の後に12弟子たちに語られたヨハネ15章9節の後半の一句です。これは、ぶどうの木とぶどうを実らせる枝のたとえをもって語られた主のことばで、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」とのことばに続くものです。神の愛にとどまり生きるとはなんと素晴らしい恵みでしょう。混沌としたこの世にあって、いのちの水が湧き溢れ、平安と希望に心が満たされるのです。キリストの教会は、この愛に生きる者たちの共同体で、キリストのからだを形成しています。キリストにある私たちが、主の愛にとどまり歩むなら、多くの... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち175
“このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(コロサイ2:3) 私たちは今、2024年の受難週を過ごしています。本年の受難週は、私にとって格別なものがあります。妻が天に召されて三年が過ぎ、まだ若いと思っていた私も71歳になりました。残された人生はあまり多くはありませんが、これまでに与えられた多くの恵みを、しっかりと後世に残したいと思っています。先日、受難週の説教を聞いた求道中の女性が、「イエスさまがかわいそうです」とポツリと言いました。「そっか…」と私は思いながら、彼女に言いました。「実は、かわいそうなのは、イエスさまを十字架につけた私たちなのですよ」…と。イザヤ書にこう記しています。「彼は私たちの背きのために刺され、... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち172
“私は切に主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。”(詩篇40:1-2) この詩篇は、詩人が、その生涯、多くの苦難の中で、死の淵を彷徨う経験をしつつも、常に主を見上げ、主の助けを求めて歩んだ自らの信仰の確信を歌ったものです。詩人はまたこの詩の中で、「わが神よ」と二人称で呼ばわり、「あなたに並ぶ者はありません」と神を讃えるのです。同じ詩篇で、神の人モーセの祈りに、「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。そのほとんどは、労苦とわざわいです」とあります。小さな私も、もう70を超えました。振り返れば、確かに苦労の連続だったと思います。でも主は、私の叫びと祈... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち171
“万軍の主よ なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。”(詩篇84:12) この詩篇は、主なる神が臨在される大庭(シオン)で、心からの賛美を持って礼拝をささげる信仰者の喜びを歌っています。詩人は神に向かって、「万軍の主、私の王、私の神よ」と呼ばわり、さらには、「神である主は太陽、また盾」と形容して、主を自らの誇りとし、賛美するのです。その幸せと喜びは、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にもまさります」(v.10)と歌い、詩人はどんな生き方をするよりも、生ける神に信頼して歩む人生こそが最高の喜びであり、幸いであると主を讃え、自らの信仰を告白するのです。元不良少年で落ちこぼれボクサーであった私マッキー少年は、信仰を持ってまもなく5... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち169
“金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。”(1テモテ6:10) これは使徒パウロが愛し慕うキリストの同労者、若いテモテに書き記したことばです。パウロはこう続けます。「あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい」と…。金銭を愛することは、強欲に走り、高慢になり、何事にも自己中心になり、他の人を顧みることをしなくなります。今の政治家たちがそうです。全能の神である主は、常に私たちの必要を知っておられます。貧しいからと言って、心配し思い煩うことも、正しい道から外れる要因になります。山上の教えで、主は弟子たちと群衆に向かってこう仰せられました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて...