アントニオいのち– category –
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◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち245
アントニオいのち
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28) この主イエスのことばは、「救い主の招き」と呼ばれ、このことばが語られてから現代に至るまでの二千年間、国を超え、言語を超え、世界中の人々に慰めと平安を与え、いのちの救いへと導いて来ました。 それは天地万物の創造者である神との新しい関係をもたらし、十字架の死に勝利されたキリストの復活のいのちにあずかる恵みと特権でもあります。この主イエスより、さらに千年さかのぼる時代に、イスラエルの統一王ダビデがその晩年、神と自分との関係を次のように歌いました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち242
アントニオいのち
年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。(1テモテ5:1a) エペソの教会の牧師として、その働きを担う若きテモテに対し、パウロは霊の父親としての立場と思いをもって、この戒めをテモテに与えています。このことは、旧約聖書においては、神の人モーセが民に向かい、神とのシナイ契約を繰り返すかたちでこう言いました。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ19:32)今の時代は年齢に関係なく「公平、平等」が強調されています。年長者の若年層に対する強い言動は、今では「パワハラ」として捉えられ、社会問題にまで発展するのです。かつて昭和の時代に普通と思われて... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち241
アントニオいのち
“ 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。”(マタイ 5:4) このみことばは、主イエスの「八福の教え」の二番目です。この世には理不尽なことが多く、傷つき落胆し、立ち上がることさえ出来なくなることがあります。それゆえに世は、悲しみから解放するためにあらゆる手段を講じて楽しむことを提供します。しかし、それらのために用いられる金銭やエネルギーは、悲しみという心から逃避する目的の現れに過ぎません。 この箇所の並行記事であるルカ6章25節には、否定文でこう記されています。「今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。」主がここで語っておられるのは、霊的な意味での悲しみです。世の価値基準とは真逆なのです... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち240
アントニオいのち
“ 栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。”(マタイ6:29) 「この花」とは、人間が栽培して育てた花ではなく、大自然の野生の花を指しています。そして、「野の花(ユリ)」がどうして育つか、よく考えなさい」と言ってソロモン王を引き合いに出すのです。野生の花には力強い生命力と美しさがあります。この度、私は津軽国定公園の荒磯に咲くニッコウキスゲやスカシユリを見て、この主のことばを実感しました。実に象牙に純金をかぶせた王座に座り、銀を石のように使ったというソロモンが、「この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」というのです。実にソロモンの栄華はすぐに下降線をたどり、あっという間に消え失せてしまいます。BC586年にはバビ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち239
アントニオいのち
「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22) パウロの「牧会書簡」と呼ばれる若き愛弟子テモテへ宛てた手紙です。「情欲を避けよ」とは、本来は、性的不純、暴飲暴食、賭け事など、この世の快楽を意味します。しかし、すでに神の良き働き人であったテモテには、別の意味での肉欲、「短気、論争、功名心、野心など」陥りやすい弱点があったとパウロには思われたのです。「避けなさい」とは、それらの思いから立ち去る、逃げ去ることです。そして、パウロの願いは、きよい心で真実な神の「義と信仰と愛と平和」を主にある者たちとともに「追い求めよ」と言うのです。人は心の高ぶりから争いを引き... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち238
アントニオいのち
ダビデが自分の家に住んでいたとのことである。ダビデは預言者ナタンに言った。「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にある。」(第一歴代17:1) 私たちは今、『みことばの光』を通して第一列王記を通読し、ダビデの子ソロモンが荘厳な神殿を七年で建て、さらに自分のために神殿の四倍もある宮殿を十三年かけて建設したところを学んでいます。父ダビデが神に許されなかった神殿建設が息子ソロモンによって実現するのです。しかし、その背後にあるのは今朝のみことばのように、父ダビデの信仰が土台にあることを忘れてはなりません。ダビデは息子のために、有り余るほどの金、銀、銅、宝石、そして優れた職人たちを残していたのです。第一歴代誌22... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち236
アントニオいのち
“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。”(1ペテロ4:8) このペテロのことばは、「万物の終わりが近づきました。」(v.7)との前節に続くものです。昨今、社会の核である家族の間に悲惨な事件が相次いで起きています。特に若い世代の短絡的、衝動的な事件が目につきます。デジタル化社会の中で、人との触れ合いが希薄になったためでしょうか。また世界規模の紛争にも徹底的に相手を潰すことが目的とされているようです。「共存、共栄」という愛と平和の理念はどこに行ったのでしょうか。冒頭の聖句を思うに、箴言10章12節の「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」が頭に浮かびます。冒頭の「何よりも互いに熱心に愛し合いな... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち235
アントニオいのち
“私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。”(1テモテ1:14) 神の恵みが心にあふれるとはどんなことでしょう。「恵み」とは聖書の最も重要なキーワードの一つです。ギリシャ語では「カリス」で、恩恵、寵愛、優しさを意味することばですが、新約聖書では、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされる救いによる新しいいのちが無償であり、人種を超えて広く世界の人々に及ぶことを強調することばです。それは、十字架のキリストを信じる者に与えられる無償の恵みであり特権です。使徒パウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント1:18)とも述べています。罪深... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち234
アントニオいのち
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:21) 私は勝負にこだわるボクサーでした。アマとプロで試合をし、勝ちも負けも経験しました。相手を打ち負かして勝利したときの喜びは、それまでの減量苦や受けたパンチの傷などは勲章にように思えたくらいです。そんな私がある日、絶望のどん底に陥ったときに、聖書のみことばに触れ、キリストの十字架の愛を知り、信仰によってまことの勝利を知ったのです。「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。」(ヨハネ5:4)私は今、このみことばを実感しています。パウロはこの素晴らしい恵みのゆえに「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」(v.14)と注意を... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち232
アントニオいのち
“ たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。”(1コリント13:2b) 使徒パウロは、キリストの十字架の愛こそが、私たちに一番大切であることを強調して教えています。どんなに感動的な素晴らしいことをして見せても「愛がなければ、何の役にも立ちません」とまで言い切っているのです。さらには、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」とまで言い張るのです。少年時代、生意気で愚かだった私は、失恋によって本当の愛について考えるようになり、教会に通い、聖書を通してキリストの愛を知るようになりました。キリストの十字架の愛を知ったとき、暗かった心に光がさして、嘆きが喜...
