目を覚ましていなさい

 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。マタイ25章13節

本日の箇所は、再臨の主を花婿になぞらえ、天の御国に入れる五人の娘と入れない五人娘のたとえです。今朝の週報の写真は、先週の婦人会の様子です。学びと主にある交わりの中で、みなさんが、油を満たして待つ賢い五人の娘のように写っています。本日の箇所のたとえは、24章後半の主人が帰るのを待つ忠実なしもべのたとえの続きです。これらの連続したたとえの目的は、主の再臨に際して「目を覚まして」(マタイ24:42,25:13)その時を待つという主題です。そして本日の箇所は、花嫁を迎えに来る花婿一行に、松明の明かりを灯して宴会場に向かう10人のブライドメイドのお話なのです。
 花嫁とは、聖書の文脈では、旧約なら神の民イスラエルであり、新約聖書では、キリストの教会を指していると言って良いでしょう。そして、その宴会場とは、天の御国を指しているのです。主のことばに、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7:21)とあります。「目を覚まして待つ」とはどのようなことかを、今週もともに学んでまいりたいと願っています。

1.主の再臨を待つ賢い者とは

 本日の箇所を中心とする前後の三つのたとえは、いずれにも「賢い」(フィロニモス/思慮深い)という形容詞が用いられ、賢く、「主人、あるいは花婿」を待つ者が、天の御国に入れることを教えているのです。では、信仰の賢さとは何でしょう。それは、与えられた任命と賜物を忠実に果たして待つことです。

2.堅く信仰に立って

このところ、「みことばの光」の通読箇所から話しても、「目を覚まして」とか、「堅く信仰に立って」ということばが続くのに驚きを覚えています。世界を揺るがす大変な時代(マタイ24)にあって、教会の私たちがぶれてしまうなら、「地の塩、世の光」としての役割を失うことを、私たちは自覚せねばなりません。堅く信仰に立つとは、主なるキリストに常に忠実にあるという生き様です。

3.目を覚ましていなさい 

目を覚ましていなさい」とは、主が弟子たちにゲッセマネの園で語られたことばでもあります。(マタイ26:36-41)ペテロとゼベダイの子らは、まさに疲れ果て電池切れだったのです。愚かな娘たちも「私たちのともしびは消えそうです」(v.8)と言い、自らの愚かさを露呈しているのです。「賢い」(思慮深い)者として主を待ち望む者でありましょう。

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あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

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