2025年4月– date –
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今の私は新しい
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。第2コリント4章16節 [聖書]2コリント4:1-18 先週はイースター召天者記念礼拝を行いました。愛餐会の交わりの後、私と優子姉とで三内霊園へ行き、お墓に花を手向けてまいりました。私たちの今があるのは、先人たちの信仰の賜物であると心から感謝しています。私たちは、十字架の贖いを成し遂げてくださったキリストによって、神の子とされ、日々新たにされて生かされているのです。何という恵みでしょう。そうかと言って、困難がないわけではありません。気になる事、心配な事が頭をよぎり、戸惑うことが多々あります。しかし、感謝なことに、私たちには、いつでも、どんな... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち231
“主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる”(詩篇31:23) イスラエルの統一王であるダビデが、様々な苦難の中にあって目を向けたものは、敵の脅威ではなく、すべてをご存知の力に満ちた助け主である神であった。悪者は罠を張ってダビデをおとしめようとするが、ダビデは主に信頼し、神の民イスラエルの王としての誠実を持って最善を尽くそうと常に神を見上げ、神の助けと導きを祈りつつ待ち望みました。彼は詩篇16篇でもこう歌っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことはない」と。反対に高ぶる者どもは、高慢を持って神を侮り、結局は自ら墓穴を掘って滅びに至ることを聖... -
あなたは今日、わたしとともに
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ22章43節 [聖書]ルカ22:32〜43 イースターの主日の朝を迎えました。私たちの一週間は、主の復活の日を週の始まりとして歩んでいます。したがって、十字架に死に三日目によみがえられ、私たちに新しいいのちを与えてくださったイエス・キリストにあって、私たちは存在するのを覚えます。ですから、礼拝は一週間の始まりであり、礼拝なくして、私たちの一週間はあり得ないと言っても決して過言ではありません。 本日は、イースター召天者記念礼拝として、信仰の生涯を全うし、天に召されたあすなろ教会の兄弟姉妹を覚えて礼拝をおささげいたします。ヘブル13章7... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち230
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。(イザヤ45:5) 本年の受難週5日目を迎えました。私たち人類の罪をその身に背負い、ひとり黙々と十字架の道を歩まれた神の御子イエス・キリストの苦難を覚えます。次週の主日はイースターを迎え、私たちは復活の主を讃えます。主を「私はあの人を知らない」と三度否んだ弟子のペテロは、後に聖霊に満たされ、捕えられたユダヤ議会の中央に立って、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と、天地万物を創造された神の絶対的主権が、このキリストにあることを大胆に語りました。 冒頭の聖句でも、預言者イザヤが、「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち229
“機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。”(エペソ5:16) 今回は、パウロの獄中書簡と言われる手紙からです。世に迎合し、神を悲しませる混乱した悪い時代にあって、神の子とされたキリスト者が如何に生きるべきかをパウロは教えています。まずは「神に倣う者となりなさい」と、次に、「愛のうちに歩みなさい」です。そして、「光の子どもとして歩みなさい」と続きます。スポーツの世界で、「ピンチはチャンス」ということばがよく用いられます。冒頭の聖句は、まさに「悪い時代だからこそ機会を十分に活かす」とも読み取れます。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光です」(マタイ5:13-14)と仰せられました。まさに、世の腐敗を防ぐ塩となり、闇を照らす光となるのが... -
絶対的主権によって
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたにいいます。この方を恐れなさい。ルカ12章5節 [聖書]ルカ20:1〜19 イザヤ43章に次のことばがあります。―主のことばー わたしが神だ。これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を行えば、だれがそれを戻せるだろうか。(v.12-13) この預言者イザヤのことばは、天地万物を創造された神の絶対的主権を述べています。この聖句の前の11節には、「わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない」と明言されています。この絶対的主権者である神をイスラエルの民はどのように... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち228
私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(2コリント5:16) この聖句の「私たち」とは、前節の「自分のために死んでよみがえられた方のために生きるため」とあるキリストの救いの恵みに生きるキリスト者を指しています。また「肉にしたがって人を知る」とは、前の新改訳第3版では、「人間的な標準」と訳されています。現代のことばで言うなら、「常識」と言うことになるでしょう。そうだとすれば、私たちが人間的な常識で考えるなら、キリストの愛は、罪人を愛し、罪人のためにいのちを捨てるという十字架の死と復活は、あり得ないことであり「非常識」だと言えるでしょう。そう...
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