イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが重要な第一の戒めです。マタイ22章37節
[聖書]マタイ22:34-46
週報の写真は、教会すぐそばのサンロード青森の屋上から撮影した八甲田山と青森クリスチャンセンターがある雲谷の山(右)です。詩篇121篇に「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは天地を造られた主から来る」とあります。私たちキリスト者の助けは、この神である主から来ることを覚えるとき、主がパリサイ人、律法学者たちに言った申命記のことばは、彼らが標榜として掲げていた本日の主題聖句に真に向き合って生きるとはどういうことかを逆に主が問われているのを覚えるのです。ある人が、キリスト教が掲げる愛には偏見と差別があるといい、神はすべての人の心の中におられ、差別なく人を愛しておられると言うのです。なんだか寛容で素晴らしいと思われますが、そこには、キリストの神性と十字架を否定し、自分独自の宗教観を主張する大きな間違いがあり、神を冒涜する大きな罪があるのです。私たちがぶれない信仰に立つために大切なことは、何を第一にし、何に信頼して生きるかが最も大切なことなのです。今朝も本日の「みことばの光」の通読箇所から、そのことについて学ばせていただきましょう。
1.いかにも正当性を装って
世の終わりの様相に、「不法がはびこる」と主は弟子たちに教えられました。それによって人々の愛が冷え、憎しみと争いが頻発するというのです。
主の時代のユダヤ人指導者たちは、真っ向から主と対峙し、正当性を装い、次々と難問の罠をかけ、主を亡き者にしようと企んだのです。その一つが本日の律法の専門家の質問です。
2.知ってると信じることの違い
パリサイ人律法学者たちは、律法と預言に通じている者たちで、ユダヤ社会の宗教指導者です。彼らの主に対する質問は、彼らの中心信条です。彼らは主に対してどんな失敗を期待したのでしょう。主は簡潔に、律法と預言が蝶番のようにつながり、それが聖書全体の中心であると答えました。
3.第一のものを第一に
1ヨハネ2:3-6を開いて読みましょう。
神を知っていることと、信じて歩むことには雲泥の差があります。まさに彼ら宗教指導者たちは23章で連続で主に嘆かれる偽善の律法学者なのです。私たちは、幼子のような素直な心で、主を信頼し、主にすがって歩む者でありたいと願います。「ぶれない信仰」とは、第一のものを第一とし、そこから離れずに歩む生き方そのものなのです。