イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」ヨハネの福音書21章22節
先週は複数の委員会が続けて行われ、密な時間を過ごさせていただきました。69歳6ヶ月でまだ現役。あと半年で70になります。幼少時代病弱でいつ死んでもおかしくなかった者を、主は父と母の祈りと願いによってプロボクサーになるほど強い身体に変えてくださり、さらに御子イエスの十字架の恵みによって、心を洗い清めてくださり、教会の牧師へと導いてくださいました。
しかし、ときどき自らの弱さのゆえに、他の人のことが気になり、心が揺らぐことがあったりするのです。人は皆、自分の容姿は見えずとも他者の姿ははっきりと見えるのです。それが私という存在なのです。「あなたはわたしを愛するか」と三度主に問われたペテロは、主に愛されていたもうひとりの弟子が自分の後ろにいるのを見て、彼のことが気になり、「主よ、この人はどうなのですか」と主に問うのです。私たち人間は、みなこのような性質があります。
しかし、私たちキリスト者は、一人ひとり、主の十字架の愛によって贖われた尊い存在なのです。十字架の愛と恵みの主の前に、「あの人は、この人はどうか」ではなく、「あなたは、わたしに従いなさい」と主は言っておられるのです。
1.憂い悲しみを希望に
本日の聖句の文脈は、復活の主がティベリア湖畔で弟子たちと再会し、共に食事をしてからの出来事です。
食事を済ませた後、主はペテロに向かって「ヨハネ子シモン」と呼び、「あなたは、この人たち以上に、私を愛していますか」と問われるのです。最後の晩餐の後、「たとえ皆があなたに躓いても、私は決してつまずきません」と言ったことを想起させるかのようです。
2.主の羊を飼うために
ペテロに「あなたはわたしを愛するか」と三度問われた主は、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられるのです。主が念を押すようにペテロに御自身への愛を確認し、その上で神の御業である宣教と牧会を託されるのです。つまり自分の弱さを知った上で、主の赦しと愛の上に立つことがペテロ(岩)、「この岩の上にわたしの教会を」(マタイ16:18)ということなのです。
3.あなたはわたしに従いなさい
人が主から使命を与えられたとき、人のことが気になり、自分を見失うことがあります。人にはそれぞれ担うべき役割があります。迫害でさえも受け入れる時があるのです。大切なことは、主がペテロに仰せられたように、「あなたは、わたしに従いなさい」なのです。