イ エ ス は 答 え ら れ た 。
「 こ の 水 を 飲 む 人 は み な 、 ま た 渇 き ま す 。 し か し 、 わ た し が 与 え る 水 を 飲 む 人 は 、 い つ ま で も 決 し て 渇 く こ と が あ り ま せ ん 。 わ た し が 与 え る 水 は 、 そ の 人 の 内 で 泉 と な り 、 永 遠 の い の ち の 水 が 湧 き 出 ま す 。
」 ヨ ハ ネ 四 章 十 三 節 〜
湧き出るいのちの水 [聖書]ヨハネ 4:1〜15
本日の礼拝で三上綾葉さんが洗礼を受け、あすなろ教会のメンバーに加えられました。
キリストの十字架の血潮によって罪赦され、復活の恵みによって新しいいのちへと導かれました。
パウロは、これを「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2 コリント 5:17)と書き述べています。
まさに、キリストにあって新生した綾葉姉の今後の人生観になることでしょう。
この素晴らしい恵みと特権は、「だれでも」とあるように、キリストを通して、世界のすべての人に開かれている救いの道であります。
この事をこの書の文脈で言うなら、イエスに従った無学なガリラヤの漁師たちであり、パリサイ人でユダヤの議員で教師であるニコデモ、さらには、結婚を何度も繰り返していたサマリアの女を、主は分け隔てなく新しいいのちの道へと導かれたのです。
本日は、このサマリアの女へ語られた主のことばから、「湧き出るいのちの水」というテーマで、心の渇き、霊的渇望を癒す「いのちの水」について、綾葉姉の受洗記念説教として、先に救われた私たちも初心に帰って学ばせていただきたいと思います。
1.愛を求めていた女に
「主は旅の疲れから、その井戸の傍らに…第六の時であった」(v.6)とあり、7節に「一人のサマリアの女が、水
を汲みに来た」とあります。
時は現代の時間では正午です。
まともな生活をしていないこの女にとっては、人目を避けるには都合の良い時間なのです。
前回学んだニコデモとは対象的です。そして、主の方から「わたしに水を飲ませてください」と彼女に言うのです。
2.疲れと渇きを共にされる主
まことの神であり、私たちと同じ人となられたキリストは、疲れを覚え井戸の傍らで休まれました。ちょうどその所にサマリアの女が水を汲みに来たのです。
主は彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と声をかけられます。
彼女は、「サマリアの女の私に」にと逆に問い、神の恵みへと導かれていくのです。
3.溢れる恵みによって(v.16-26)
慰めに満ちた優しい主のことばに、心を砕かれ、いのちの水を得た彼女は、喜びに心満たされ、自分の水がめを置いたまま町へ行き、「来て、見てください」(v.29)と、主がメシアであることを伝え、サマリアの多くの人々を主の元に導くのです。
彼女はニコデモと同じように、溢れ出るいのちの水によって、真の礼拝者へと導かれたのです。