しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことをせず、お見捨てになりませんでした。あなたは、情け深く、あわれみ深い神です。
ネヘミヤ九章三一節
恵みのどんでん返し【聖書】ネヘミヤ9:23-31
先週の水曜日夜の聖書研究祈祷会では、ネヘミヤ記9章から「しかしがしかし」というタイトルでレジメを作成し、イスラエルの民の歴史とそこに働く神のあわれみと恵み(ヘセド)について学ばせていただきました。
天地万物を創造され、完璧に整えられた神の被造世界にアダムの子孫である人の子らを住まわせた恵みの神は、アブラハムを信仰の父として選び、アブラハムの子孫から神の民とされるイスラエル人が起こりました。
このネヘミヤ記9章には、神の天地創造からアブラハムの選びと約束の地の契約→エジプトの苦難と出エジプト→荒野での主の恵みと導き→約束の地、カナンへの入植と、旧約の神の民の歴史が綴られています。
神の愛と恵みに対する、民の傲慢と背信が繰り返される中で、「それでも神は」と、あわれみを持って導かれるのですが、「しかし、彼らは・・・」と、何度もなんども神を悲しませるのです。
そして31節で、再度、「しかし、あなたはその大いなるあわれみにより、彼らを滅ぼし尽くすことはせず、お見捨てになりませんでした」と、このネヘミヤ記の結論に見る城壁完成と都の再建という大きな祝福をもって御自身の栄光を現されるのです。
1.「しかしがしかし」
ネヘミヤ9章には、「しかし」という接続詞で続く段階に民の傲慢と不信が繰り返し記されています。
9章で5回確認できます。(16,26,28,29,31)
しかし、31節だけは特別な「しかし」なのです。
つまり、・・・にも関わらず、あわれみと恵みの神は「彼らを滅ぼし尽くすことをせず、見捨てなかった」というのです。
これこそ、迫害者サウロを回心させ、世界宣教へと導かれたキリストによる「恵みのどんでん返し」なのです。
2.過去の罪を顧みて
「過去に目を閉ざすものは、つまりのところ現在にも盲目である」とは、ドイツのバイツゼッカー大統領の1985年の連邦議会での名演説の一部です。
ネヘミヤ9章におけるイスラエルの民は、先祖の罪咎を告白し、神の大きなあわれみと恵みに、感謝と賛美を持って、新たな出発を決意するのです。
3.十字架による恵みの完成
先ほど使徒パウロのことを例に挙げました。
彼は自らを罪人と頭と称し、「私はキリストの恵みによって今の私になりました」(1 コリ 15:10)と告白しました。
キリストの十字架の愛は、どんな人をも新しく塗り変えます。
それは、キリストを信じ、みことばと祈りと聖徒の交わりにより確かなものとされるのです。