アントニオいのち– category –
-
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち223
悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから。詩篇37篇1-2節 私たちは、「目には目を、歯には歯を」という旧約の律法を用いて、敵対する相手ととことんやり合ってしまうことがあります。聖書は、それは大きな間違いであることを教えています。ダビデがサウル王に仕えていたとき、王の妬みからいのちを狙われ、また王になってからも息子に謀反を起こされ、いのちを狙われます。そんなダビデが、常に心を注いで祈り求めたのは、ダビデが常に信頼して祈る神の助けでした。そして彼が確信したのが、「主に信頼し、善を行え。地に住み誠実を養え。」(v.3)ということです。今回のみことばは、その前の1節... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち222
「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2) これは、主イエスの兄弟ヤコブが、エルサレムにおける迫害によって各地へ散らされた兄弟姉妹たち(ディアスポラ)に宛てて書いたものです。信仰の結ぶ実は、「愛、喜び、平安・・・」であるはずが、現実には、なんと「様々な試練」となり、その身に危害を及ぼす事になっているのです。そこで、エルサレムにおける教会の長老であったヤコブが、苦難の中にある彼らを励ますために、「試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」というのです。ありがたくない試練を、「この上もない喜びとする」とは、いったいどうすればとよいのでしょう。 ヤコブは、こう続けます。「信仰が... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち221
” 私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。"(詩篇62:1-2) このダビデの賛歌は、王としてのダビデが息子アブシャロムに謀反を起こされ、いのちを狙われるという重圧の中で、神に望みを置く者としての幸いを告白しています。「神から救いが来る」というダビデの信仰の確信は、「神こそわが岩」という、神の力と絶対的主権、その不変性を表しています。「揺るがされない」とは、ダビデの強い確信です。 私たちも、思わぬ出来事の中で戸惑い悩むことがありますが、このダビデの信仰の確信を覚え、私たちの救い主イエス・キリストは、どんな苦難からも私たちを救い出してくださる恵みに溢れるお方... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち220
“木には望みがある。たとえ切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。”(ヨブ記14:7) このことばは、旧約聖書のヨブ記に登場するヨブという人が、度重なる災いで家族と財産を失い、自らも悪性の腫物に覆われ、生きる屍と化した状態の中で口にしたものです。彼は万物の創造者である神を信じる誠実な人で、その信仰が大いに祝福され、幸いな生活を送っていました。しかし、突如として数々の苦難に襲われ、その心が揺さぶられるのです。ヨブにとっては不条理と思われる苦しみの中で、彼は自然界の木々に目をとめ、「木には望みがある」と、それでも神に望みをおくのです。世界は今、相次ぐ飛行機事故や突然の災いで、多くの尊いいのちが失われています。「神がいるな... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち219
“ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことでしょう。”(雅歌7:6より) これは、ダビデの子、賢者ソロモンの雅歌の一節です。『雅歌』とは、英語訳では、「Song of Songs]とされ、『歌の中の最も優れた歌』という意味です。言い換えれば、「雅やかな歌」と言えるでしょう。神とイスラエルの関係を、愛する人との関係になぞらえて、その恋の切なさ、愛の喜びを歌っているのです。この節の「あなたはなんと美しく、麗しいことよ」とは、どんなに美しい女性が多くいたとしても、あなただけが私の最も愛する人であり、あなたを恋慕うその思いは、私の喜びとなり、心の潤いとなると歌っているのです。これは、現代に適用するなら、救い主キリストと教会の関係であると... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち218
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13) この聖句を思うとき、昔読んだことのあるアンドレ・ジットの『狭き門』という小説を思い起こします。「狭き門」というと、いつの時代も受験生にとっては難関をイメージするでしょう。しかし、主イエスが言われた「狭き門」とは、「永遠のいのちに至る門」であり、「求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれる」という、天の神の溢れるばかりの恵みであることを教えているのです。今は牧師として生きている私は、かつては落ちこぼれ少年で、何をやっても中途半端な人間でした。挙げ句の果てには大きく道を外し、警察に補導されることしばしば、母の悲しみ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち217
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(2コリント1:4) ある人は、「人生は苦痛の連続」と言います。一生懸命、真面目に生きても、それが報われず、喪失感に陥ることがしばしばあります。しかし、私たちには、キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちたお方がともにおられるのです。パウロはこう続けます。「私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです」(v.5)と。キリストの苦難は、私たちを罪の苦しみから救い出し、キリストにある新しいいのちへと導くためなのです。なんと素晴らしい愛と恵みでしょう。私自身、今も自らの弱さのゆえに失敗し、失意落胆することがあります。... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち216
しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。(2コリント12:9) 使徒パウロには、自らが「肉体のとげ」と形容するほどの厳しい病を抱えていました。トゲとは、本来、鋭く尖った木の槍を指し、それが「とげ」を意味するようになりました。彼が言う肉体のとげとは、まさに「主の十字架」のようであると言えるでしょう。彼は苦しみの中で、このとげを去らせてくださいと三度、主に願ったのです。しかし、主の答えは、「私の恵みはあなたに十分である」との冒頭のことばです。私は今、インフルエンザに罹患し、夜もうなされるほどの体調不良にあります。しかし、感謝なことに、うなされている間もみことばのブロッ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち215
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12) 新年二日目の早朝、まだ布団に入って寝ていた時間に、家の外で車が雪にハマって身動き取れないでいる様子がエンジンの回転音やタイヤの空回りの音で知らされた。窓の外を見ると大雪で、一台のタクシーがスタックして身動き取れないでいた。外は大雪で、しかも氷点下、「どうしたものか…。」と考えていたら、私の心は、冒頭のみことばに押し出され、すぐに起き上がり、厚着をしてスコップを手に外に出た。男性がもう一人外に出ていたので、二人がかりで雪を掘り起こし、車を押して、ようやく脱出させた。運転手さんは、「こんな朝早く、ほんとうにありがとうご... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち214
「大事なのは新しい創造です」 What counts is the new creation.(ガラテヤ6:15) 2024年もあと一週間を切りました。大きく揺れ動く世界情勢のただ中にあって、キリストの教会に生きる私たちは、心を合わせて神の平和を願い求めます。それは具体的には、一人でも多くの人がキリストの贖いの十字架の愛と恵みを知り、新しいいのちを持つことです。 冒頭の聖句は、「割礼を受けているかいないか」という、うわべだけの信仰が大事なのではなく、生きるいのちの存在そのものが新しく造り変えられているかどうかが重要だというのです。私が知っている一人の女性は、20年の間、精神的病に苦しみ、ご両親もそのために悶々とした生活を送っていました。ある時、お友だちに教会のクリスマ...