アントニオいのち– category –
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◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち183
アントニオいのち「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。」(イザヤ41:14) この預言者イザヤが発した神のことばは、すぐ後には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)という神からのラブコールと変わります。私はふと、子ども唱歌の『手のひらに太陽を』を思い出し、くちずさんでいました。「ぼくらはみんな生きている。生きているから歌うんだ…。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。友だちなんだ。」天地万物をお造りになられた神は、いのちあるものすべてを「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」(創1:28)と祝福され、その管理を最初の人、アダムとエバに委ねられたのです。したがって... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち182
アントニオいのち「むちと叱責は知恵を得させる。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」(箴言29:15) 小さなわがままが成長し、大きくなると高慢になり、争いや悲惨を引き起こすまでに至ります。しかし、主イエスを信じる信仰は、「からし種ほどの小さな信仰でも、山に向かって『ここからあそこに移れ』といえば移るのです。」(マタイ17:20)と、大きな力になることを、主は弟子たちに教えられました。子供の救いの聖歌の20番に『うるわしき朝も』があります。2番目の歌詞に、「わがままを捨てて人々を愛し、この日の務めをなさしめたまえや」とあります。 聖書はまた、「心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち181
アントニオいのち「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2) 『ミッドライフ・クライシス』(中高年の危機)ということばがワイドショーで取り上げられていた。第二の思春期とも言われ、人生の折り返し地点における喪失感や倦怠感でうつ病を発症することも多く、中高年の八割がこれを経験していると言うのだ。中高年といえば、登山に例えればちょうど山の中腹を超えた時点です。上を見上げれば、まだ先が長く、不安と恐れが頭をよぎるのだ。しかし、冒頭に掲げた詩篇には、「都上りの歌」との表題があり、天地万物を造られた神を礼拝するために喜びいさんで都に上る信仰者の姿を歌っています。続く3節にこうありま... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち180
アントニオいのち「あなたは、私を諭して導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」(詩篇73:24) この聖句は昔、私が生涯献身を求めて断食祈祷していた京都のビジネスホテルの一室で与えられたものです。なかなか確信が与えられず悶々としていた朝方、たまたま開いていたページがこの詩篇73篇でした。この聖句に触れたとき、私は直感で、主が諭し導いてくださるのなら、私はありのままで従おうと決心したのです。そして、「後には栄光のうちに受け入れてくださる」ということばには、主の十字架による勝利と栄冠が輝いて見えたのです。 あれから、早くも40年になろうとしています。振り返ると間違いなく主の諭しと導きは真実であり、残された人生にも神の栄光の希望が溢れているのです... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち179
アントニオいのち「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」(詩篇4:1) 新改訳2017では、「追いつめられたとき、あなたは私を解き放ってくださいました。」と訳され、完了形で記されています。この「ダビデの賛歌」の4章1節の前後には、神に対する叫びと祈りがあります。つまり、敵に追い詰められ、危機的状況の中で、神に向かって祈り求め、解放されて平安を得たというのです。私たちの危機的状況にも、物理的、精神的なものが多々あります。経済的な心配、人間関係による思い煩いなど、やり場のない状況に追い詰められることがあります。このようなときに、キリスト者は、救い主イエス・キリストの御名により、義なる神に向かって具体的助けを祈り求めることができる... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち178
アントニオいのち二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」(伝道者4:9) 「このことばは、「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば」(1:2)とあることから、ソロモン王とされています。彼は当時の全世界に、知恵と富と文才で知られていた最も有名な王でした。彼のこのように優れた知恵と知識は、彼がそのことを第一に神に願い求めたからです。(cf.1列3:10)。その知恵は、シェバの女王がソロモンの名声を聞き、難問を持って試そうと大勢の従者と多くの贈り物を携えて接見するほどでした(1列王10:1)。「彼に答えられなかったことは何一つなかった」とも記されています(同10:3)。そのソロモンでさえ、「二人は一人よりもまさっている」と言うのです。この伝... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち177
アントニオいのち「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください。」(ミカ7:19) 昨夜の祈祷会で教会福音讃美歌の371番『とこしえの父の神に』を、みなで賛美した。繰り返しの箇所に「主の御手はどんな罪も、海の深みに投げ入れて沈められる。主よ、感謝します。」と歌われている。まさにミカ書7章19節の聖句です。ダビデの統一王国が、彼らの偶像礼拝と背信の罪ゆえに、北と南に分断され、サマリヤとエルサレムがそれぞれの首都となるのですが、北のサマリヤはBC721年にアッシリヤ帝国によって廃墟となり、BC586年には南のエルサレムもバビロンによって陥落するのです。このミカ書の特徴は、「罪、滅亡、回復」の三つの使信が記され... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち176
アントニオいのち「わたしの愛にとどまりなさい。」 ”Now remain in my love.” (Jhon15:9b) このことばは、主イエスが最後の晩餐の後に12弟子たちに語られたヨハネ15章9節の後半の一句です。これは、ぶどうの木とぶどうを実らせる枝のたとえをもって語られた主のことばで、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」とのことばに続くものです。神の愛にとどまり生きるとはなんと素晴らしい恵みでしょう。混沌としたこの世にあって、いのちの水が湧き溢れ、平安と希望に心が満たされるのです。キリストの教会は、この愛に生きる者たちの共同体で、キリストのからだを形成しています。キリストにある私たちが、主の愛にとどまり歩むなら、多くの... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち175
アントニオいのち“このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。”(コロサイ2:3) 私たちは今、2024年の受難週を過ごしています。本年の受難週は、私にとって格別なものがあります。妻が天に召されて三年が過ぎ、まだ若いと思っていた私も71歳になりました。残された人生はあまり多くはありませんが、これまでに与えられた多くの恵みを、しっかりと後世に残したいと思っています。先日、受難週の説教を聞いた求道中の女性が、「イエスさまがかわいそうです」とポツリと言いました。「そっか…」と私は思いながら、彼女に言いました。「実は、かわいそうなのは、イエスさまを十字架につけた私たちなのですよ」…と。イザヤ書にこう記しています。「彼は私たちの背きのために刺され、... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち172
アントニオいのち“私は切に主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。”(詩篇40:1-2) この詩篇は、詩人が、その生涯、多くの苦難の中で、死の淵を彷徨う経験をしつつも、常に主を見上げ、主の助けを求めて歩んだ自らの信仰の確信を歌ったものです。詩人はまたこの詩の中で、「わが神よ」と二人称で呼ばわり、「あなたに並ぶ者はありません」と神を讃えるのです。同じ詩篇で、神の人モーセの祈りに、「私たちの齢は70年、健やかであっても80年。そのほとんどは、労苦とわざわいです」とあります。小さな私も、もう70を超えました。振り返れば、確かに苦労の連続だったと思います。でも主は、私の叫びと祈...