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永遠の大祭司イエス
イエスは、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。ヘブル7章27節 [聖書]ヘブル7:24-28「りんごの花が満開だ」という情報を耳にして、先週、浪岡の道の駅アップルヒルズに行き、初めてりんごの花をじっくりと観察し、撮影して来ました。枝から芽を出し、蕾となり、可憐な花を咲かせた後、それから立派なりんごの実を結ばせることに、主が弟子たちに語られた「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)とのみことばを思い浮かべていました。 私たちキリスト者は、キリストに繋がっていて豊かな御霊の実を結ぶのです。パウロは... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち234
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:21) 私は勝負にこだわるボクサーでした。アマとプロで試合をし、勝ちも負けも経験しました。相手を打ち負かして勝利したときの喜びは、それまでの減量苦や受けたパンチの傷などは勲章にように思えたくらいです。そんな私がある日、絶望のどん底に陥ったときに、聖書のみことばに触れ、キリストの十字架の愛を知り、信仰によってまことの勝利を知ったのです。「私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。」(ヨハネ5:4)私は今、このみことばを実感しています。パウロはこの素晴らしい恵みのゆえに「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」(v.14)と注意を... -
私たちを執り成す大祭司
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。ヘブル2章18節 [聖書]ヘブル2:1-18 昨日から『みことばの光』はヘブル書に入りました。本書は、「ヘブル人への手紙」とされているのに、発信者の名前も宛先も記されておらず、著者が誰であるかは断定されていません。使徒パウロが有力であるとされていましたが、その他にバルナバ、雄弁なアポロ、ルカ、シラス、ローマのクレメンスなどという名が挙げられましたが、決定的な証拠が無く、初代教父のオリゲネスが、「この書の著者は神のみぞ知る」という名言を残しました。また、この手紙の受取人についても不明ですが、全体の文脈から考えて、迫害と困難の中にあって、神から離れ... -
神と共に歩む祝福
もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それを行うなら、わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。レビ記26章3〜4節 [聖書]レビ記26:1-26 本日の週報の写真にあるように、先週金曜日の午前中に新田先生の畑で、ジャガイモの植え付け作業をさせていただきました。新田先生は、教会の子どもたちが土に触れ、大自然の中で心豊かに成長することを願って毎年、私たちに畑を提供してくださっています。大自然がもたらす収穫は、まさに神の恵みです。この天地万物を創造された恵みの神に対して、私たち人間が如何に生きるべきかが聖書の最も大きなテーマであり、学ぶべきポイントです。 レビ記は、出エジプ... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち232
“ たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。”(1コリント13:2b) 使徒パウロは、キリストの十字架の愛こそが、私たちに一番大切であることを強調して教えています。どんなに感動的な素晴らしいことをして見せても「愛がなければ、何の役にも立ちません」とまで言い切っているのです。さらには、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」とまで言い張るのです。少年時代、生意気で愚かだった私は、失恋によって本当の愛について考えるようになり、教会に通い、聖書を通してキリストの愛を知るようになりました。キリストの十字架の愛を知ったとき、暗かった心に光がさして、嘆きが喜... -
今の私は新しい
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。第2コリント4章16節 [聖書]2コリント4:1-18 先週はイースター召天者記念礼拝を行いました。愛餐会の交わりの後、私と優子姉とで三内霊園へ行き、お墓に花を手向けてまいりました。私たちの今があるのは、先人たちの信仰の賜物であると心から感謝しています。私たちは、十字架の贖いを成し遂げてくださったキリストによって、神の子とされ、日々新たにされて生かされているのです。何という恵みでしょう。そうかと言って、困難がないわけではありません。気になる事、心配な事が頭をよぎり、戸惑うことが多々あります。しかし、感謝なことに、私たちには、いつでも、どんな... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち231
“主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる”(詩篇31:23) イスラエルの統一王であるダビデが、様々な苦難の中にあって目を向けたものは、敵の脅威ではなく、すべてをご存知の力に満ちた助け主である神であった。悪者は罠を張ってダビデをおとしめようとするが、ダビデは主に信頼し、神の民イスラエルの王としての誠実を持って最善を尽くそうと常に神を見上げ、神の助けと導きを祈りつつ待ち望みました。彼は詩篇16篇でもこう歌っています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことはない」と。反対に高ぶる者どもは、高慢を持って神を侮り、結局は自ら墓穴を掘って滅びに至ることを聖... -
あなたは今日、わたしとともに
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ22章43節 [聖書]ルカ22:32〜43 イースターの主日の朝を迎えました。私たちの一週間は、主の復活の日を週の始まりとして歩んでいます。したがって、十字架に死に三日目によみがえられ、私たちに新しいいのちを与えてくださったイエス・キリストにあって、私たちは存在するのを覚えます。ですから、礼拝は一週間の始まりであり、礼拝なくして、私たちの一週間はあり得ないと言っても決して過言ではありません。 本日は、イースター召天者記念礼拝として、信仰の生涯を全うし、天に召されたあすなろ教会の兄弟姉妹を覚えて礼拝をおささげいたします。ヘブル13章7... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち230
わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかには神はいない。(イザヤ45:5) 本年の受難週5日目を迎えました。私たち人類の罪をその身に背負い、ひとり黙々と十字架の道を歩まれた神の御子イエス・キリストの苦難を覚えます。次週の主日はイースターを迎え、私たちは復活の主を讃えます。主を「私はあの人を知らない」と三度否んだ弟子のペテロは、後に聖霊に満たされ、捕えられたユダヤ議会の中央に立って、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と、天地万物を創造された神の絶対的主権が、このキリストにあることを大胆に語りました。 冒頭の聖句でも、預言者イザヤが、「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主... -
◯ Pastor Macky 72の『いのちのパン』アントニオいのち229
“機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。”(エペソ5:16) 今回は、パウロの獄中書簡と言われる手紙からです。世に迎合し、神を悲しませる混乱した悪い時代にあって、神の子とされたキリスト者が如何に生きるべきかをパウロは教えています。まずは「神に倣う者となりなさい」と、次に、「愛のうちに歩みなさい」です。そして、「光の子どもとして歩みなさい」と続きます。スポーツの世界で、「ピンチはチャンス」ということばがよく用いられます。冒頭の聖句は、まさに「悪い時代だからこそ機会を十分に活かす」とも読み取れます。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光です」(マタイ5:13-14)と仰せられました。まさに、世の腐敗を防ぐ塩となり、闇を照らす光となるのが...