ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。ローマ12章1節
[聖書]ローマ1:1~2
新年早々、思いがけない試練に遭遇し、眠られない日が続き、ストレス性心労から高血圧が続いています。せめて血圧が下がり健康が支えられるようにお祈りしていただけたら感謝です。
この春から、それぞれの家族にも教会にも新しい動きが見られます。それがどのような影響を与えるのかは、私たちの信仰と神の御手の中にあります。そうした変化を私たち自身がどのように受け止め、信仰によって対処して行くかが大切なことだと思っています。
今年度、教会は『自らを献げる信仰』というテーマを掲げて、主とともに歩ませていただきます。それは、ある意味では、自分自身を取り巻く現状を含めて、ありのままの自分を主にお献げして、主とともに歩む生活、いわゆる「献身」を意味するのです。本日の週報の写真は、先週「津軽弁説教収録」の計画を着々と進めている豪州GRNのジェフさんとZOOMで会議をしているスクショです。彼はメンタルと健康の弱さから宣教師となるのを断念し、世界の少数言語で福音宣教を展開する働きに自らを献げています。神は自分の願いとは違う方向へと導かれることがあります。まさにパウロがそうだったのです。
1.私は主のもの主が私を
使徒パウロの私たちに対する献身の勧めは、滅び行く私たちをあわれみ、御子イエスの十字架によって滅びから贖い出してくださったことのゆえであるというのです。贖いとは代価を支払って買い戻すのが原意です。主の十字架によって神のものとされた私たちはもはや自分のものではないのです。
2.自分を喜ばすのではなく
私たちの信仰において大切なことは、感謝をもって神に栄光を帰すことです。パウロはかつてキリスト者を迫害し、それによって自分の義を立てることを生き甲斐としていました。しかし、彼はダマスコ途上で光り輝くキリストと出会い、目潰しをくらい、まさにその心が見えていないことを知らされるのです。
3.自らを献げるということ
昔、紀州に升崎外彦という伝道者がいました。彼によって救われた病を抱える一人の女性が、その信仰により両親家族によって迫害され、土蔵に閉じ込められ衰弱死してしまうのです。彼女の死後、彼女が持っていた聖書とメモが見つかり、そこには両親のための祈りと主への感謝が綴られていました。その彼女の信仰は両親の心を開き、なんと両親と親族がキリスト信仰へと導かれるのです。
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