エリヤをとおして言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。第一列王記17章16節
[聖書]ルカ4:22〜30
新年もすでに第三主日を迎えました。先週の役員会では年間主題と聖句を決めきれませんでした。先週水曜夜の祈祷会で、そのことを覚えているとき、私は、本年の主題と聖句は、掲げて昌和するだけではなく、実際に私たちがそれに向かって、互いに自らが「信仰の行いとして」前に踏み出すような決心でありたいと願わされています。そこで教えられたのは、イエスの宣教のはじめの出来事が記されている現在通読しているルカの福音書4章です。ナザレで育った主は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と公生涯を開始されます。(cf.マルコ1:15)
主が語ることばには力があり、誰もが驚き、感銘を受けるのですが、ではこの人は誰かと目を向けたときに、「この人はヨセフの息子ではないか」(v.22)ということになり、主が語らえた神の恵みから心を逸らしてしまうのです。
律法と預言者を知っている神の民がこうなのです。そして主はこう言われます。「預言者は自分の郷里では歓迎されません」と。(v.24)こうして、主は、旧約聖書を引用し、「異邦人の貧しいやもめの信仰と神の祝福」を神の選民と自負する者たちに語られるのです。
1.聞いても信じない者
主が故郷のナザレの会堂で読まれた預言書と語られたことばは、「貧しい者に良い知らせ」、「捕われ人には解放を」などの、神の救いの恵みでした。 しかし、彼らは聞いても信ぜず、しるしを見たら信じると心を頑なにするのです。ことわざの「医者」はイエスで、「自分を」はナザレを指しています。そこで、主は「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と言うのです。
2.異邦人に主の恵みが
主は彼らにしるしを与えず、「まことに(アーメン)あなたがたに」と、主が重要な宣言をなさる際に用いることばで旧約のエリヤとエリシャの話を引用して、主の恵みが異邦人に注がれたことを話されるのです。それは彼らが古いユダヤ教の枠の中にとどまり続け、主の福音に心を開かなかったからです。
3.御前に行いを差し出す信仰
主は彼らに、一握りの粉とわずかな油でパンを焼き、それを食べて息子とともに死のうとしていたシドンの貧しいやもめがエリヤにそのパンを差し出した話を聞かせます。彼女は、その信仰により、「かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった」という主の恵みを受け、「主のことばは真実であることを知りました」(1列17:24)と言うのです。
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