主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。ミカ書6章8節
[聖書]ミカ書6:1〜8
先週私たちは、『自らを献げる信仰』との本年度の主題を掲げて総会を行いました。本年の活動計画と予算、そして奉仕分担を決めました。これらのことすべては、私たちの信仰の証しとともに、主が命じられた福音宣教のために行われるのです。そして、何よりも大切なことは、その働き人である私たちが、神の民、レビ族の祭司のように、神とこの世の人々の間に入って救いの仲介者として神に仕えるためなのです。
今回の総会のことや、私自身のこと、そしてこれからの教会のことを思い巡らしていたとき、ふと週報に掲げたミカ書6章8節のことばが心にとまりました。この文脈は、神を悲しませる背神の民イスラエルに、預言者ミカを通して、「主は幾千の雄牛、幾万の油を喜ばれるだろうか」(v7)と語られた主のことばです。民の形骸化されたささげ物や礼拝に主は耐えられなかったのです。 ダビデは自らの罪を悔い改め、「神へのいけにえは砕かれた霊、打たれ、砕かれた心」(詩51:17)と自らを主に献げたのです。私たちは本当に罪深い弱い者です。しかし、キリストの十字架の贖いによって私たちは聖なる者とされ、神に仕える者とされているのです。
1.受け入れられない礼拝とは
ローマ12章1節の第3版は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」となっています。では受け入れられない礼拝とはなんでしょうか。私たちは今、そのことをレビ記で学んでいます。レビ記10章ではアロンの子の二人が異なる火を主にささげ、焼き尽くされて死んでしまうのです。
2.たとえ多くの物をささげても
私たちがたとえ多くをささげたとしても(ミカ6:7)、そこに神に対する畏敬の思いと自らのへりくだった心がなければ、それは神を侮る傲慢でしかないと教えているのです。新約に見るパリサイ人、律法学者がそうです。
人はうわべを見るが、主は心を見られるお方であることを覚えましょう。
3.主のみこころを我が心として
旧約のささげ物は、本来は自分自身を献げることを意味します。しかし、罪ある私たちは、そのままでは献身できないのです。だから傷のないきよい物が選別され、身代わりにされたのです。神の御子キリストは、そんな私たちのために十字架にかかり、ただの一度で贖いを成就してくださったのです。その主の愛を我が心として主の前にお献げいたしましょう。
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