自らを献げる信仰


 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。ローマ12章1節

  

[聖書]ローマ12:1〜2   
 私たちは今、キリストの愛によって新しいいのちを与えられ生きています。
 私にとって大切なお方がいつもともにおられるって、素晴らしいことです。
 それがこの世の社会における人間関係においてもそうであるなら、どんなに素晴らしいことでしょう。使徒パウロが「愛がないなら私は無に等しい」と言われたことをヒシヒシと感じています。
 愚かな無に等しい私が、キリストの愛によって70過ぎまで生かされ、今も牧師としてここにいます。今、ちょっとした試みの中にありますが、ある意味、背筋がピリッとした思いにさせられ、感謝しています。生かされている意味を再確認する機会が与えられたからです。「あなたがたのからだを、聖なる生きたささげ物として献げる」って、レビ記から考察するなら、自分を丸ごと焼き尽くしてささげることですから、半端ないことです。それが私たちのあるべき礼拝というなら、それは、厳粛に受けとめ、主の前における礼拝のあり方をしっかりと確認して学ぶべきです。
 今回は、2節の「この世と調子を合わせてはいけません」に目を留め、主題の『自分を献げる信仰』の意味について学ばせていただきたいと思います。

1.まずは、この世を知る
 「この世と調子を合わせるな」とはどういう意味でしょう。では、ここでいう「この世」(this world)について学びましょう。それは直訳すると「この時代」で、過ぎ行く今の時代で、神に反逆する人間本意のこの時代を指しています。それは、永遠の御国と対比されて用いられ、この世の外見的なあり方に同調してはならないという警告なのです。

2.自分を変えなさい
 私たちは辛いことに直面すると、つくづく自分に嫌気をさすことがあります。
しかし、パウロは、「心を新たにすることで自分を変えなさい」というのです。 
 この「新たに」とは、<transform>で、原語では<メタモルフォー>蝶がサナギから成虫に変わるように、容態が変わる性質が変わるという意味です。それは、先に述べた信仰によってです。

3.私たちにふさわしい礼拝を
 最後に、キリストにある私たちの礼拝について学びます。先週の祈祷会では、朝に夕に祭壇の絶やすことなく神に仕える祭司の姿を教えられました。
ローマ12:1の「あなたがたの礼拝」とは、祭司たちのように、神と民との間に入って立って仕える礼拝を意味するのです。私たちの信仰の生き様が日々の生活の中でそうありたいと願います。

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あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

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