あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。ローマ12章1節
[聖書]レビ記1章1節~17節
本年の新しい主題を掲げて三週目に入ります。神の前に自らを献げるとは、「献身」を意味します。つまり、私をあなたの御用のためにささげますということです。それを今の私たちの信仰生活に適用するとどうすればよいのでしょう。
『みことばの光』の聖書通読は、ちょうど良いタイミングで「主にささげ物を献げる」(レビ1:2)という主旨の内容が記されているレビ記に入っています。
アブラハムの子孫として神に選ばれたイスラエルの民が、自らをきよめ、聖なる神との正しい関係を維持し、神と共に歩むために繰り返し行うことが「神へのささげ物」です。それは、献げる者の身代わりとしてのささげ物です。
規定がとても厳格で、中途半端な気持ちではとてもできません。なぜそこまでしてと思うでしょう。そこを学ぶのがレビ記の目的です。レビ記1章には、神がモーセを呼び彼に告げられた第一のことは、「ささげ物を献げる」ことです。文字通り、ロマ書12章1節です。それは全焼のいけにえであり、罪ある民の贖いの代価としてのささげ物なのです。それは、言ってみれば、聖なる神の前に「自分を献げる信仰」であり、贖いの代価と言っても良いでしょう。
1.偉大な神とそのきよさを知る
レビ記とは、1章1節の「神が彼(モーセ)に告げられた」との表題がそのままの意味だといいます。絶対的主権者である神に選ばれたイスラエルの民は、聖なる神との契約関係を世界に証しするために存在するのです。しかしながら、ここに至るまでも、神に背き神を悲しませた民ですから、自らをきよめ神の前に出る必要があるのです。それがモーセを呼び、告げられた目的です。
2.全焼のいけにえを主に
レビ記1章には「全焼のささげ物」について記されています。それは献げる者の経済的状況により違いますが、それぞれがきよく最も良いものをささげるように限定されているのです。そして、そのささげ物は、自らの贖いの代価、身代わりとして、屠られ、神の前に献げられるのです。この厳かな緊張感を覚えていただきたいと思います。
3.ささげ物を献げるとは
「ささげ」と「献げ」には表記の違いがあっても実質はイコールです。
「全焼のいけにえ」(コルバン)が自分自身なのです。それは、罪の贖いなしに神と共に生きることができないことを意味します。そして私たちの贖いとなられたキリストを覚え、自らを献げるのが私たちの真の信仰なのです。
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