神を信じて生きるとは

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ローマ10章11節

聖書箇所/第一サムエル31章1節〜13節

 本日は第一サムエルの最後の章から、主に油を注がれて王になったサウルと、主に愛された息子のヨナタンと二人の兄弟たち、サウル王一家の悲惨な最期から考え学ばせていただきます。虚しく響く記事(節)の一つひとつに、このサムエル記全体に登場する一人ひとりの言動とその結末の集大成のようなものを覚えさせられ、彼らが登場する場面場面で、私ならどうしていただろうかと考えさせられます。つまり、神に信頼して行動するその信仰とはどんなことなのかということです。

1.登場人物のその信仰によって
 これまでも繰り返し確認しましたが、神の民であるイスラエルの歴史書であるサムエル記には、サムエルの母ハンナからサムエルの幼少期、サムエルを神に仕える祭司として育て上げたエリ、エリの息子たち、サムエルの息子たち、ダビデの兄弟とダビデ、ペリシテのゴリアテ、イスラエルの敵である王たち、様々な人たちが登場し、その言葉の一挙一動から状況がまったく変わってしまうことを学ばせていただきました。先週主日礼拝の「名もない一人の若者の進言」によって、行状の悪いナバルの妻アビガエルとナバルの一族と財産が守られたように、サウル王の悲惨な最期も、彼の信仰一つで、まったく別な方向へと神によって導かれることが理解できるのです。

2.サウル王が悔い改めていたら
 例えばですが、サウル王が心からダビデに謝罪し、ダビデを王として迎えることを喜び、神の前にへりくだって引退していたなら、ヨナタンとその兄弟たちも死に至ることはなかったでしょう。そして、神とダビデに守られて、平安のうちにその生涯を閉じることになると思うのです。サムエル記は、神の民イスラエルが、「私たちにも王を」と叫び要求したことに第一の問題があり、彼らの生き様そのものが常に問われていたことを覚えるのです。

3.キリストこそがすべてのすべて
 ならば、今、イエス・キリストによって、罪赦され神の子とされた私たちは、キリストを信じ、キリストの十字架を負って歩むことが私たちの生き方であることを覚えるのです。その主ご自身が「神の国と、神の義を第一としなさい」と仰せられているのですから、それはそれ。でも私はこう思いますでは、信仰の本質そのものが聖書的ではないと言えるのではないでしょうか。今回の第一サムエルから、信仰の本質とは何かを考えさせられたことを感謝します。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

コメント

コメントする

目次
目次
閉じる