ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
第一コリント4章5節
[聖書]1コリント4:1〜5
コリントの教会にあった問題の一つに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言う分裂と争いがありました。そのことにより、教会全体の秩序が乱れ、教会の中に様々な問題や不品行が絶えませんでした。つまり、キリストが第一ではなく、互いが自分の考え方、その思いが第一優先になっていたのです。前回。私は、「教会論」を論じる前に「救済論」が大切だとお話ししました。
教会とは、キリストを信じる信仰により罪赦され、神の子とされた者たちが神を礼拝するために召し集められた一つの共同体(エクレシア)であります。そこには、主にあって互いに支え助け合うと言う愛の交わりがあるのです。これを聖書は「コイノニア」と教えているのです。コリントの教会には、「これでもキリスト教会か」と思われるような現実が渦巻いていたのです。ある意味では、それが「罪赦された罪人の集まり」である教会とも言えるでしょう。ですから、私たちは神から離れると、すぐさま人間的な思いや感情に心が支配され、神を悲しませてしまうのです。使徒パウロは、私たちは「神の奥義の管理者と考えるべき」と教えているのです。
1.教会における私たちの存在
教会における私たちは、キリストのしもべであり、神の奥義の管理者であるとパウロは言うのです。「しもべ」とは、キリストの主権、支配、意志が中心であり、私たちが教会を支配しているのではなく、キリストのみこころを行うのが私たちしもべの役割なのです。「奴隷」(ドゥーロス)と「しもべ」(ヒュペレーテース)は同義語であると言えるでしょう。
2.神の奥義の管理者として
私たちは単に、全体的主権者である神に隷属しているのではありません。神の奥義の管理者として神に仕える役割を担っているのです。「奥義」とは、みことばと聖礼典を通して実現する福音宣教と教会形成のことです。管理者にとって大切なことは忠実なことです。私たちは神からの賜物を用いて仕え合う良い管理者であるべきなのです。
3.判断の主体は神にある
コリントの教会では、「私はこう思う」、「私の気持ちとしては」と自分主体で判断し、さばきあっていましたが、パウロは3節から5節で「人を義とし、さばく方は主です」とキッパリと言うのです。
私たちの主体は、教会の頭であるキリストです。私たちをさばく方は、私たちの隠されていることのすべてを明らかにされ、報いを与えられるのです。
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