わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。―主のことばーイスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者は誰もいない。エレミヤ30章10節
[聖書]エレミヤ書30:1-24
教会の運営年度もあと残すところふた月になりました。『自らを献げる信仰』という年間主題で歩ませていただいていますが、周囲の出来事に気持ちが削がれ、それどころではなかったと言うのが私たちの本音かも知れません。
それは、今私たちが通読しているエレミヤ書におけるユダの民もそうでした。近隣諸国の圧力で安心できず、「平安がないのに平安だ」と民の祭司や預言者たちが言い張っていたのですから。 こうして神のさばきがバビロンによって実行され、BC605年頃から第一次捕囚が始まり、BC598年には、エホヤキム王をはじめとし、有力者、そして職人たち約一万人がバビロンに連行されます。そしてBC586年にエルサレムが陥落するのです。私たちが『バビロン捕囚』と認識するのはこの年代です。私たちは、今回、この歴史的出来事を、今日の私たちを取り巻く世界、そして私たち自身の信仰に照らして読み、考えさせていただいております。この30章と31章は、『回復の歌』と言われ、イスラエルとユダ両国のために、後の時代と比べるために保存できるように、エレミヤに書き記すように命じたものです。
それは、今の私たちのためにもです。
1.状況を見て現実を知ること
「歴史は時計の振り子のように繰り返す」と言われます。人間の世界は、力と欲のぶつかり合いで、その争いは規模の大きさによって拡大するのです。それは信仰の世界でも同じで、信じる対象と主義主張が違えば、それだけで争いになるのです。(注/1)私たちは、主の十字架こそが、和解と平和の真理の道であると信じているのです。
2.すべてを失うどん底にあっても
この章は、神によるイスラエルの救いと回復が描かれています。祖国を失い、すべてを失っても、神は民を救うと言うのです。(v.7)特に本日の中心聖句の10節は、将来の平安と希望が約束されているのです。これを私たちは新約の光で読み取るなら、まさにキリストの十字架による贖いの御業です。
3.神の真実な救いの約束
エレミヤの時代の神の指導者たちも主の時代の祭司、パリサイ人、律法学者たちも、やっている事、その信仰は全く同じで、神のことばの真意を心を砕いて求めることはありませんでした。また異邦の王や民を愛し、御自身の計画のためにお用いになる神は、御子イエス・キリストを通して隔ての壁を打ち破り、真の平和を築いてくださるのです。主こそ私とあなたの神なのです。
注1)現代のアメリカでは、複数の争点をめぐり、きわめて深刻な対立が生じている。…対立はなぜ起こるのか。その答えは意外にも宗教にある。2022年のある調査によれば、四割ものアメリカ人が世界は終わりつつあると信じている。特に米国の人口の25%近くを占めるとされる「福音派」では、その割合は六割を超えるという。彼らにとって、現代の政治的・社会的対立は終末における世界における善と悪の戦いの一部として理解されている。
出典/(『福音派』ー終末論に引き裂かれるアメリカの社会―/加藤喜之:中央公論新刊社/2025.9)


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