実に彼らは聖なる都の出だと自称し、その名が万軍の主であるイスラエルの神に寄りかかっている。イザヤ48章2節
[聖書]イザヤ48:1-16
世界は今、キリストの再臨に向かって大きく揺れ動いています。ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ・ハマスとの戦争も鎮まるどころか、ますます過激さを増しています。愛は平和を築き、人々に平安と喜びを享受しますが、戦争は憎しみ破壊、滅亡をもたらす最悪のシナリオであることをどうして人間は受けとめることができないのでしょう。それは自分が正しいという主張を言い張ることから始まっているのです。本日の箇所は、先週の水曜夜、祈祷会で分かち合った箇所です。ここで目に付くのは「彼らは聖なる都の出だと自称し」(v.2)です。これを今日の私たちに適用するなら、「自称クリスチャン」と言えます。預言者イザヤの時代、神に背き堕落しているイスラエル向かって、神はイザヤを通して神に立ち返り、神にのみ信頼することを語っているのですが、彼らはこれに耳を傾けることはありませんでした。彼らは、押し迫るバビロニア帝国の脅威の中で、神に頼るよりも、目に見える強国に助けを求め、難を逃れようとしていたのです。本日は、私たちが求めるべきは何かをともに学ばせていただきましょう。
1.クリスチャンという名称
「ヤコブの家、イスラエルの名」それは、アブラハムに約束された祝福の神の民であるのですが、それは名ばかりで、実質がともなっていないというのが前半の厳しい指摘です。私たちも形だけの信仰生活なら、自称クリスチャンで、辛いときにはこの世に助けを求め、調子の良いときだけ、信仰者を振る舞うということになってしまうのではないでしょうか。
2.さばきをもって諭す神
預言を通してご自身を知らしめる神について、私たちは事が起こってからそれを知るようになるが、神はこれから後も、私たちが知らない事を計画しておられることを心に留めるべきです。「ああ、私は知っていた」と言わないようにするためにです。「私たちが裏切り者である」ことを主は知っている(v.8)というのです。
3.贖いの神に立ち返る信仰
12節では1節のように、民のアイデンティティを自覚させるように、「ヤコブ、イスラエルよ」と呼ばわります。
つまり、万物の創造者である神に立ち返り、神に信頼するときに、神は最悪の事態から救い出すことを、これから先のバビロンからの解放を宣言し、真実な御自身を示すのです。
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