永遠の大祭司イエス

イエスは、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。ヘブル7章27節

[聖書]ヘブル7:24-28
りんごの花が満開だ」という情報を耳にして、先週、浪岡の道の駅アップルヒルズに行き、初めてりんごの花をじっくりと観察し、撮影して来ました。枝から芽を出し、蕾となり、可憐な花を咲かせた後、それから立派なりんごの実を結ばせることに、主が弟子たちに語られた「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)とのみことばを思い浮かべていました。 私たちキリスト者は、キリストに繋がっていて豊かな御霊の実を結ぶのです。パウロは、その実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と教えています。先週私がりんごの木から可憐な花を確認できたように、世の人々が私たちクリスチャンを見て、何かを感じられたらと思います。今私たちは、ヘブル書を通読しています。「私ちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではないあわれみと恵みの神の御座におられる聖なるお方である」ことを学んでおります。この御子イエスのただ一度の十字架の贖いによって、私たちを律法と罪の束縛から解放し、キリストにある自由を与えてくださったのです。ここに私たちの新しいいのちの力があるのです。

1.大祭司の務めとは
 神の民イスラエルにおける初代の大祭司として任命されたのはモーセの兄アロンです。イスラエルの民と神との間に入って幕屋礼拝を執り成す祭司の長であり、レビ族の首長です。神の律法に仕え、自分と民の罪のためにいけにえを献げ、神の前に罪の赦しを執り成すのです。まさに日々執り成し続けるのが彼らの務めだと言えるでしょう。

2.人の思いを超えたその存在
 神の存在は、私たちの知識の範疇をはるかに超えています。私たちが知っていると思うのは、そのごく一部に過ぎません。「その祭司は肉についての律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となった」(v.16)とあります。私たちの大祭司は、人の伝統や系図ではなく、神のご計画によってこの世に来られたのです。

3.永遠の大祭司イエス
 死によって後継者を立てる大祭司とは違い、死に勝利された主イエスは、永遠の仲保者として、私たちを神の前に執り成すことがおできになります。律法の下にある者は、律法によって罪に定められますが、律法のあとに来られた私たちの大祭司は、ただ一度の十字架の贖いにより、私たちを罪の支配から解放してくださったのです。

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あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

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