だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。2コリント5章17節
使徒パウロがコリントの教会に宛てたこの手紙には、パウロの涙ながらの渾身の思いが込められています。それは宣教の情熱だと言っても良いでしょう。キリストにあって、罪赦され救われた者が、キリストにあって真実に生きるとはどんなことかを教えているのです。
先週水曜夜の祈祷会で学んだ5章前半はイスラエル特有のキーワードで記されているため、注意深く読み取る必要がありました。たとえば、「地上の住まいである幕屋」とか、「人の手によらない永遠の住まい」、「天からの住まい」とか、「神はその保証として御霊を」などとありました。保証ということばには、欄外注に「手付金」とあります。これは、「頭金」とも訳せることばで、「永遠の御国への保証金としての御霊を神が与えてくださった」という意味です。これを主なる神が満額決済してくださる時には、私たちは地上の生涯を終え、永遠の住まいに存在しているのです。それゆえ、キリスト者は日々新しくされ、聖霊に導かれて生きる人生であるべきです。本日は、5章17節を中心に、『新たな始まり』というタイトルでキリスト者としての生き方、あり方について共に学んでまいりたいと思います。
1.地上の幕屋を脱ぎ捨てて
本日の中心聖句のすぐ前の16節に「私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません」とあります。以前の訳では「人間的標準で」とあり、人の容姿や学歴、家庭環境等のうわべで判断する傾向があることを示しています。つまり、地上の幕屋を指しているのです。パウロはこの幕屋は朽ちて行く一時的なものだと強調しているのです。
2.古いものは過ぎ去って
マッキー芦名は、少年時代はコンプレックスの塊のような存在でした。その反動が不良からボクサーなのです。しかし、それでも悪い習慣や曲がった性格は治りませんでした。それがなんと、キリストとの出会いによって、新しく生まれ、みことばの乳とキリストの愛によって変えられたのです。「キリストのうちにあるなら」が重要なのです。
3.見よ、すべてが新しく
「古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しく」とは、びっくり仰天です。罪深いこの世から、一気に天国に連れて行かれたようなアメージングです。この「見よ」は、神の新創造に驚嘆して発する喜びと勝利のことばです。イザヤ43:18の「見よ、わたしは新しいことを行う」の成就なのです。キリスト者が見るべきはこの新しい人生なのです。
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