ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。ローマ10章17節
[聖書]ローマ10:1-17
『みことばの光』による聖書通読は、先週木曜日からローマ書に入りました。パウロの第三次伝道旅行の終わり頃(使徒19章)、紀元57年頃、コリントにおいてローマにいるキリスト者たちに宛てて書かれたものとされています。それは大きな一つの教会に宛てて書かれたというより、キリスト者の群れが散在するローマの諸教会が回覧できるように記された公的な手紙です。この書は、多くの人たちから、キリスト教信仰の真髄と言われ、改革者ルターも強調する「キリストを信じる信仰によってのみ人は救いに導かれ、神の子とせられる」という『信仰義認』を中心に、パウロの神学が収められているのです。そしてなんと言ってもパウロが情熱を燃やすのは、「みことばの宣教」です。
あすなろ教会は本年、宣教50周年を迎えました。何をするために、何をしてこの50年を歩んで来たのかを今一度、確認しつつ、この春、ロマ書を通して学ばせていただけたらと願っています。 そしてロマ書でも、パウロが強調しているのは、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(1:16)という「信仰による救い」(信仰義認)です。
1.みことばに力があるということ*.1)
明後日はJECA東北地区の総会が行われます。そこで、報告され、話し合われるのは、昨年一年地区でなされた宣教の働きの確認と新しい年度の宣教活動についてです。今一度、確認すれば、私たちは、人々に救いをもたらす神のことば、つまり「聖書のみことば」(キリストによる救い)を伝えるために、先に救いに導かれ、教会の宣教の使命に召されているということです。
2.語り伝えるということ
みことばを語り伝えるという方法には対面で、ことばで伝えるという方法と、手紙などの書面で伝える方法があります。私の場合、幼い頃、父が亡くなってからずーっと壁に飾られていた一つの聖句と、苦難のボクサー時代、兄の手紙に記されていたヨブ記のことばです。それが、なんと救い主イエス・キリストの救いへと私を導いたのです。
3.信仰は聞くことから始まる
昭和の伝道者は、聖書のことばを話す際、自らの失敗談を通して、機関銃のように話題を連発し、笑わせ、泣きを取り、最後にはとどめのように、失敗を赦し、罪を聖め救いをもたらす十字架のことば*.2)を語るのです。語る人がいなければどうしてこの素晴らしい恵みの福音を聞くことができたでしょうか。


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