信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。ヘブル11章6節
[聖書]ヘブル11:1-16
先週、カメラを片手に平和公園を散策して来ました。チューリップの花はしおれて散り、ツツジが真っ赤に咲いていましたが、私が目についてシャッターを切ったのは、木々の新緑の鮮やかさです(週報写真)。そして、厳しい寒さを耐えて来たその木々に、「木には望みがある。たとえ切られてもまた芽を出し、その若枝は絶えることがない」というヨブ記14章の聖句を思いました。人間は、人との信頼関係が崩れると孤立し、独善的な考え方に陥ります。それはクリスチャンといえども要注意で、私自身にも言えることです。まさにヨブ記のヨブもそうでした。しかし、彼は、四面楚歌、八方塞がりの状況の中で、天の神に目を向けたのです。そして彼が口にしたことばが、ヘンデルの『メサイア・ハレルヤコーラス』の中に繰り返し登場する「私は知っている私を贖う方は生きておられる」(ヨブ19:25)というヨブの心の底から発せられた信仰告白なのです。本日のヘブル11章は旧約聖書に登場する偉人たちの信仰とその生涯について記されています。本日は、「信仰とは何か、信仰によって何をして、何を得ることができるのか」を学ばせていただきましょう。
1.信仰の望みと確信
旧約の偉人たちは、この見える世界が神のことばによって創造されたこと。その創造者であり、絶対的主権者である神を信仰の対象としています。そして信仰者の望みが自分からのものではなく、神が与えてくださるものを期待し、与えられると確信するのです。まだ見えない先にことを実体として先取りするのが彼らの望みと確信です。
2.信仰による証しによって
この章には、文頭に「信仰によって」と18回、繰り返し記されています。
信仰の偉人たちは、まだ見ぬ神の約束とそのご計画を確信して行動したのです。それが彼らの生き様です。今から66年前、父が天に召されてから、我が家の居間にヘブル11章4節の「彼は死んだが今もなお語っている」聖句が掲げられていたのを思い出します。
3.私たちの希望
信仰者の希望とは何でしょう。たとえこの地上で約束のものを手に入れることがなくても、神の変わらぬ約束は、「天の故郷」、すなわち、復活のキリストが備えてくださった朽ちることのない「天の御国」にあることを私たちは確信しています。信仰者は、地上では旅人であり寄留者ですが、この朽ちることのない希望が保証されているのです。
コメント