ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立たせて、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。第二サムエル5章12節
[聖書]2サムエル5:1-12
先週、私は説教協力で勝利兄と一緒に仙台の泉パークタウン教会に行ってまいりました。写真は教会の中心メンバーで、これに2倍くらいの人たちと、ZOOMで6名の方々が礼拝に参加され、祝福された礼拝となりました。「教会」それは、キリストのからだであり、各部分がつなぎ合わされて一つとされています。イスラエルの民が神にあって一つであるように、キリスト者は、イエス・キリストにあって一つです。
本日は、このことを覚え、教会に与えられた使命を再確認し、私たちが今為すべきことを教えていただきましょう。
1.潜在的な問題のゆえに
先週の通読箇所の『みことばの光』の解説に、「潜在的な不満が解決されていないために、ある出来事をきっかけに敵対関係となってしまう悲劇が教会にもある」と執筆者が記していました。
潜在的な不満とは、解決されずに残されている私たちの「的外れの罪」(ハター)です。それは、故サウルの将軍アブネルが形だけの君主イシュ・ボシェテからダビデへと寝返ることで明らかにされるのです。しかし、アブネルはダビデの将軍ヨアブに殺され、悲惨な最期を遂げるのです。神を知っていたとしても、自分の思い、策略で行動した悲しい結果だったのではないでしょうか。
2.罪を悔い改めて
読んでいただいた後の13節からは5章前半とはうってかわって、ダビデの醜態がさらりと記述されています。一夫多妻、さらに側女のこと。また、そこに息子の名としてソロモンが記されています。勇者ダビデ、優れた君主ダビデであっても、これが彼の人生に暗い影を落としたことは間違いありません。でも、私たちは、主が彼を選び導き、イスラエルの統一王として油を注ぎ、後にはダビデの子孫から救い主が誕生することを知っているのです。そこに彼の悔い改めの信仰があったことを覚えるのです。(cf.詩篇51篇)
3.主を知るということ
パスカルの『パンセ』に「神を知ることと、神を愛することまでの間はなんと遠いことだろう」とあります。サウルも、イスラエルの民もみんな神の存在を知っていました。ダビデの信仰とどこが違うのでしょう。それは神を愛し、信頼して、神とともに歩むことと、ただ知っているだけという大きな違いです。ダビデは成功しても失敗しても、常に神に立ち返り、常に主を仰ぎ見てその生涯を歩み通したのです。私たちはキリストの十字架を仰ぎ見て前進いたしましょう。
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