神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。ピリピ2章13節
キリストにあって迎える朝がどんなに爽やかで希望に満ち溢れているかを体験されているでしょうか。
それは「そんな気がしているだけ」ではなく、キリスト者の確信です。確かに、「外なる人は衰えても、内なる人が日々新しくされている」のを実感しているから言えるのです。
「みことばの光」は先週末からピリピ書に入りました。パウロの「獄中書簡」の一つで、パウロがローマの獄中から、裁判の結果次第では死刑になるという状況で書かれたものです。そして、その手紙がなんと『喜びの書』と言われる「いつも主にあって喜び、喜べ」(4:4)というテーマで記されているのです。なぜそんなに喜べるのかを「みことばの光」解説に記してあります。「困難の中にあっても宣教が前進する喜び、キリストにあって教会が一つとされている喜び、信仰によって救われる喜び、御国の希望の喜び、同労の助け手がいる喜び、祈りと献金によって宣教に関われる喜び」などです。自分のことで精一杯と思われる私たちも、福音の働きにあずかれる喜びを感謝して、主の栄光のために用いられたいと願います。
1.神の恵のゆえにある私
パウロはこの手紙の冒頭で、自らを「キリストのしもべ」と記しています。しもべとは「奴隷」のことです。かつては罪の奴隷であった者が、キリストの十字架の贖いによって、奴隷から解放され、キリストに仕える者にされたという意味です。私たちもまた、キリストの恵みにより、自由が与えられ、御国の特権を得ているのです。
2.何を一番にするのか
あなたは誰に仕えているのか。
「忙しくてそれどころではない」と、人は言います。しかし、それは私たちが言うことではありません。私たちは「イエス・キリストは主です」(v.11)と私たちが仕えるべき主人はキリストであることを第一に覚えるべきです。
パウロは、1章21節で、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」とまで言い切ったのです。
3.神のみこころのままに
つまり、私たちもキリストがすべてなのです。しもべは主人に従順であることが第一です。(v.12)そればかりではなく、私たちの主は、私たちに志を与え、神のみわざを行わせてくださるのです。神のみこころは、神が事を行わせてくださり、私たちをして御自身の栄光を現されるのです。
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