御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる神の右の座に着かれました。ヘブル書1章3節
[聖書]ヘブル1章1節~5節
今年も残すところ、あと二週間ほどとなりました。本日からアドベントの第三週に入り、来週はいよいよクリスマスを迎えます。クリスマスの御子イエスを思うとき、「その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。というイザヤ9章6節を思い浮かべます。今朝のヘブル書1章は、まさに、このクリスマスの「ひとりのみどりご」の本性、本質、絶対的主権について記されているのです。先週は、思いもよらなかった大きな地震があり、びっくりしましたが、私はすぐに主の絶対的主権を思い、主の再臨の約束にむしろ希望と平安を与えられました。というのは、私は今もこうして主の恵みの中に守られて生かされていることを実感しているからです。だから、ヘブル書の著者は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(12:2)と言うことができたのです。ヘブル書が書かれた事情には、諸教会が存続の危機にあったことです。それゆえに、著者は、はじめ挨拶を抜きに、ただちに本題に入るのです。それは「聖書が語る神のことば」です。この神のことばこそ、教会の信仰の本質であり、信仰者の生活の土台です。
1.御子イエスの完全性
この書の目的は、キリスト者となった人たちが、神と教会から離れ、信仰を放棄しつつある状況の中で記されたものです。離れる人たちは、いつでもその理由を自分中心に言い訳します。しかし、問題の本質は、その人たちが信じ、信頼していたのが何かです。彼らがそのままでは決して神の国に入れないことを覚えなければなりません。
2.語られて来た神のことば
この書の冒頭の1節と2節は、「神のことば」である聖書全体を意味します。「預言者たち」と「御子にあって私たちに語られた」がそれです。もし、神が沈黙の神であるなら、何を根拠に私たちは意思決定するのでしょう。その決定と行動の主体は、結局は、罪深い愚かな私たち人間なのです。神は今も真理を語っているのです。
3.インマヌエルの輝きを
神の右の座についておられる救い主が、いつもどんなときにも共におられるとは何と素晴らしいことでしょう。
真実なみことばをもって私たちを導き、神が一つひとつのことをご計画にしたがって成してくださるとするなら、私たちはどうして思い煩い、神から離れるのでしょう。神から離れることは、栄光の輝きを失うことなのです。


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