イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ22章43節
[聖書]ルカ22:32〜43
イースターの主日の朝を迎えました。
私たちの一週間は、主の復活の日を週の始まりとして歩んでいます。したがって、十字架に死に三日目によみがえられ、私たちに新しいいのちを与えてくださったイエス・キリストにあって、私たちは存在するのを覚えます。ですから、礼拝は一週間の始まりであり、礼拝なくして、私たちの一週間はあり得ないと言っても決して過言ではありません。
本日は、イースター召天者記念礼拝として、信仰の生涯を全うし、天に召されたあすなろ教会の兄弟姉妹を覚えて礼拝をおささげいたします。ヘブル13章7節に、「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」とあります。聖書のみことばに信頼し、その生涯を全うした先人たちのことです。けれども、この神の救いの恵みには、大きなどんでん返しがあることも聖書は教えています。今朝は、主の御国のたとえから、「あとの者が先になり、先の者があとになるのです」(マタ20:16)と言われる、聖書中、一番の先例となる意外な人物の救いの恵みを紹介し、彼の何がそのような特権にあずかることができたのかをともに学ばせていただけたらと心から願っています。
1.私たちの代わりに
「我が身に代わって」王に捕えられたメロスの友、セリヌンチウスとの友愛を描いた『走れメロス』は有名です。二人とも友を信じ切るのに葛藤があり、戦いがありました。しかし、キリストの十字架は歴史を貫いて、神が私たち罪深い人間を、神と和解させるために、御子イエスをこの世に遣わしたことを聖書は明確に示しているのです。
2.アガペーとフェリア(愛と友愛)
「私はあの人を知らない」と三度否んだ弟子のペテロに、復活の主は「あなたは私を愛するか」と三度問います。主は二度、アガパオー(動詞)でペテロの愛を問いますが、ペテロはフェレオー(動詞)で答えます。この二つは同義語ですが、ペテロの弱さを配慮しての主のことばなのです。
3.新しいいのちに生きる恵み
一方的な神の愛を受けるために必要なことは、神の前に自らの罪を認め悔い改めることです。つまり、キリストの十字架に自らの全てを委ねることです。この主の隣りの犯罪人は、イエスの神性を信じ、自らの罪を悔い改め、主の栄光を讃えたことにあります。ここに「あとの者が先になる」という主の恵みのどんでん返しがあることを覚えて主を信じて欲しいと願います。
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