ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように、あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。ルツ記3章10節
先週の礼拝説教は、士師記のまとめとして、『私の神、私の主』というテーマでお話ししましたが、実のところその逆で、「私が神、私が主」という、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた」という背信と放縦を示すことばで士師記は閉じられるのです。
士師記は、悶々とした暗い12部族のリーダー無き、背信の三百年であったと言えるでしょう。そして、聖書通読箇所は、士師記からルツ記へと移りました。先週水曜日の祈祷会ではルツ記3章から学ばせていただきましたが、集った私たちの顔と心に安堵と喜びが滲み出て、「信仰とはこうでなければ」と確信を新たにさせていただきました。
先週木曜日に背信したアントニオいのちにも書かせていただきましたが、 まだ士師の時代の中で、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(1:16)というルツが姑のナオミに言ったことばこそ、神への信仰告白であり、神の国への出発点なのです。マタイ1章のイエス・キリストの系図の5-6節に、「ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデを生んだ」とあります。ここにも、ルツによる信仰の祝福を見るのです。
1.私の名はマラ(苦しむ)
ルツ記全体を読み終えて、同じ士師の時代にあっても神に望みを置く信仰者と「自分の目に良いと思われることを」と自己中心に生きる人とでは、こうも違うのだと教えられます。ナオミは、夫を失い、二人の息子まで失い、残されたのは、息子が娶った異国の嫁です。ナオミの信仰に報いるなら、家族が健在で、そのまま大いなる祝福をと考えるのが当然ではないでしょうか。
2.最悪の中に手を延べる神
ナオミがベツレヘムに戻り、私の名はマラです。「全能者が私を大きな苦しみにあわせたから」(1:20)と言います。
財産を失った彼女たちが生活するために、異国の嫁のルツに落穂拾いをさせることになるのです。そんな中に、ナオミの夫の親類で買い戻しの権利を持つ誠実なボアズが現れるのです。
3.ボアズとルツの出会いによって
出会いはとても大切です。その最も偉大なことは、神との出会い(キリストとの出会い)です。ヤコブもそれによってイスラエルとう名になり、サウロもパウロに変えられました。ルツもまたボアズとの出会いによって、姑をマラからナオミ(快い)という名に回復させ、偉大な救い主イエス・キリストの祖先としてその名を歴史に刻むことになるのです。
コメント