私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(2コリント5:16)
この聖句の「私たち」とは、前節の「自分のために死んでよみがえられた方のために生きるため」とあるキリストの救いの恵みに生きるキリスト者を指しています。また「肉にしたがって人を知る」とは、前の新改訳第3版では、「人間的な標準」と訳されています。現代のことばで言うなら、「常識」と言うことになるでしょう。そうだとすれば、私たちが人間的な常識で考えるなら、キリストの愛は、罪人を愛し、罪人のためにいのちを捨てるという十字架の死と復活は、あり得ないことであり「非常識」だと言えるでしょう。そういうわけで、私たちキリスト者は、人の目には非常識だと思われるキリストの愛とあわれみの中で生かされているのです。だからこそ、私たちもこの世の常識ではなく、キリストの十字架の愛とあわれみを標準として生きるべきだとパウロは教えているのです。
*「アントニオ」とはラテン語で大変貴重なものという意味 (2025.4.3)
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