「高ぶりがあると、ただ争いを生じるだけ。」(箴言13:10)
<Where there is strife, there is pride.>
私が愛読している『謙遜』というアンドリュー・マレーの著書の中に、「人の高ぶりこそキリストの贖いを必要とする最も大きな罪である」とあります。聖書は、高ぶりは争いを引き起こし、自らを破滅させるとも教えています(cf.詩篇16:18,18:12)。終末の様相を呈しているこの時代、キリスト教会の中にもヒタヒタとこの高ぶりが義人の姿を装って入り込んでいます。パウロは、1コリント13章で、「…あらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しい」と愛を強調し教えています。人の高ぶりには、その愛が欠落しているのです。つまり、思いやりや配慮に欠け、自分が一番を主張するのです。神の前に砕かれた謙虚な心こそ、天の御国に相応しい「幸いなるかな。心の貧しき者よ」と、神に愛される最も大切なことであることを覚えます。
*「アントニオ」とはラテン語で大変貴重なものという意味 (2023.10.19)
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