信仰は行いで証しされる [聖書]ヤコブ2:14-26

あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
ヤコブ二章二十二節

信仰は行いで証しされる [聖書]ヤコブ2:14-26

 「向きを変えて出発せよ」との新年度の指針が与えられ、「神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます」と、その出発の根拠となる詩篇108篇13節を携えて、新しい年を歩ませていただいて三ヶ月目に入りました。

年度の4分の1ですから、前半の半分をすでに歩んでいるのです。

私自身は、新たな思いで幸先の良いスタートを切ったと思っていましたが、まさかのコロナ陽性で、娘の愛と共々、人生これで終わりかと思うような目に遭いました。

しかし、私はそれで、世界の脅威となっている感染症を、身をもって知ることになり、神の主権のなんたるかを覚えさせていただいたのです。

つまり、「生きるも死ぬもキリストにあって」ということです。
 

 そして日々通読する聖書のみことばによって、神が教会を愛し、その聖徒たちを通して御自身の御業を行っておられることを現在進行形で覚えさせていただいているのです。

そんなわけで、小さなあすなろ教会は、心を一つに、主にあって前進できているだろうかということを、本日は今通読しているヤコブの手紙を通して、「信仰は、行いが伴って完成する」ということを、みことばから確認してまいりたいと思います。

1.尽きないあわれみによって

 前回、申命記の学びを通して、神はイスラエルの民を、忍耐をもってあわれみ、荒野の40年を経て、結局は御自身の約束のゆえに、民をカナンの地へ導き入れてくださることを学びました。

 それは、ある意味では、神の人モーセとヨシュアの信仰に支えられていたからだと言えるでしょう。

私の場合は、妻めぐみの信仰によって今があるといっても過言ではないと思っています。

2.信仰を一つにして

 ヤコブ2:14-17は、行いのない口先だけの信仰について記されています。

 「可哀想に!食べて飲んで温まって帰りなさい」と言っても、何も与えずにいるのなら、愛があると言えるだろうかというのです。

私にもそういったところがあります。

むしろそんな私を悲しく思うのです。キリスト信仰は具体的な愛の行動で証しされるものなのです。

3.キリストの愛に倣う者として

 22節の「あなたが見ているとおり」とは、前節の「アブラハムがイサクを捧げたその行いが義とされた」を指しています。

これは、「キリストの十字架の型である」といわれます。

神が御子を贖いの犠牲として私たちのためになだめの供え物としてお与えくださったのです。

ここに具体的な愛の証があるのです。

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あすなろ福音キリスト教会 牧師

日本福音キリスト教会連合(JECA)
あすなろ福音キリスト教会 牧師
青森県十和田市生まれ
近畿大学商経学部卒&聖書宣教会(神学本科卒)

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